"The sky which the half moon rises on" Side Story part.1





ガラガラガラ……。

今日も里香は僕の家に遊びに来ていた。
長いように思われた冬も気づけばあっという間に過ぎ去って、木々をよく見ればもう芽が膨らんできているものも見つかる。
毛布を二枚かけていると、暑い。あれだけ辛かった朝も、もうそれほど寒くは感じなくなってきた。

『お邪魔しま〜す。』
「お邪魔されま〜す。」
『……(じとー)。』
「なに?」
『裕一、』
「ん?」
『それ、小学生の会話だよ?』
「そう?ま、いいじゃん。入れよ。こんなところで突っ立ってると風邪引くぜ。」
『……ふ〜ん。』

どこか疑うような視線を向ける。

(どうして今日はこんなに機嫌いいのかな?)

「ほーら。早く。」

(怪しい。)

ガラガラガラ……ピシャ。

薄暗い玄関に入り、後ろ手に引き戸を閉める。
先に入った里香は迷うことなく明かりをつけた。
勝手知ったるなんとやらってやつだな。

『あれ?裕一、お母さんは?』
「ああ、今日は何か用事があるとか言って、夜まで帰ってこないってさ。」
『へ、へぇ〜。そうなんだ。』
「うん。さて、じゃあとりあえずオレの部屋で待ってて。お茶とお菓子、持ってくから。」
『……手伝う。』
「いいっていいって。んじゃな。」
『あっ』



「おまたせ〜。」
『……遅い。』
「え、そ、そう?いつも通りだと思うけど。」
『あーもー。いいのっ、遅いったら遅いっ!』
「……ごめん。」
(……やけに素直だし。これは絶対何かあるわね。)
「あ、でさ。それはそれとして、ちょっと里香に見せたいものがあるんだけど。」
『見せたいもの?』
「おう。ほら、こないだ撮った写真。引き伸ばしてみたんだ。」

持ってきたお盆を机に置くと、引き出しから里香が校門の前に立っている写真を取り出す。

『……随分大きいわね。』
「おいおい、そこか?突っ込むのは。もっとこう、すごーいとか何とか……。」
『すごいの?』
「……いや、まぁ、その。でも、大変だったんだぞ?大きいから。」
『ふーん。で、これ、どうするつもりなの?』
「ん〜、里香が欲しけりゃやるよ。そうじゃなければ額にでも入れて飾るかな。久々によく撮れたし。」
『え、ちょっと、やめてよ。恥ずかしい。』
「そうか?んー、いいアイデアだと思ったんだけどなぁ。」
『いいよ。本当に。……で、今日裕一がなんか楽しそうだったのは、これ?』
「そんな風に見えた?まぁ、オレとしては会心の出来だったからな。」
『ふうん……。』

と、気のない返事を続ける。

「なぁ。」
『なに。』
「んー、その、里香はそんなに好きじゃないのか?写真とか。」
『だって、』
「だって?」
『……その、いやらしいんだもん。』
「いやらしいて。いやオレはそんなつもりは全く……。」
『じゃあこれは何?』

どさっ、と目の前に積み上げられる、……「写真集」。

「えー、っと、あのな、里香、これはその。そうだ。その人物写真の参考にしようと思って……、」
『じゃあ何でモデルの人はみんな裸なの?』
「くっ……、そ、それは、えーっと、大自然の神秘を……、」
(ぎろ)
「ひぃっ!」
『はぁ……。あの時、言ったよね?』
「ああぁああぁあぁああごめんなさいごめんなさいどうかお許しを……。」

きつーい一発が飛んでくる!
なるべくその衝撃を緩和するために、はいつくばって頭を抱え歯を食いしばる!

…………

……が、そのげんこつはいつまで経っても飛んでこない。
目を開け、恐る恐る里香のほうを見ると、何やら様子が変だ。怒っている……わけではない。少なくとも。

「え、っと……。里香、さん?」
『裕一。』
「は、はいっ!」
『そ、その。ゆ、裕一は、えと、こ、こんなこと、したい、の……?』

と、その「写真集」の中でも一番際どい一ページを開いて掲げてみせる。

「し、したいかって、その。あ、と、とりあえず里香はこんなもの見ちゃダメだ。」
『あっ。』

その「写真集」を取り上げ、積まれた他のものと一緒にとりあえず脇にどける。

…………。
妙な沈黙が支配する。
ぽかんとしていた(ように見えた)里香の顔は真っ赤で。でもその瞳はどこか真剣で。
その表情が次第に必死なものに変わってくる。

『だ、だめって。どうして?』
「どうしてて、その、いやらしいし……。」
『でも裕一はこういうことしたいから、あんな本を持ってるわけでしょ?』
「えぇええぇ、その、したいかとかそういうことじゃなくて、一つの男としては色々あるわけでして……。」
『でも、したいんでしょ?』
「いや、だからしたいとかしたくないとかじゃなくて、」

何とか話をはぐらかそうとする僕に、里香はその真剣な瞳を合わせて。
ただ興味があるからとか、そういうのではない。
どこか必死で、見方を変えれば苦しそうで、切なげに訴えかける瞳に、思わず息を呑んだ。

『ねえ。聞いてるの。……裕一は、その、ああいうこと、したいの?』
「そりゃ、し、したい、けど……。でも、」
『……(ぼそ)。』
「え?」
『……し、……い…?』
「え、な、何?」
『…………して、いい、よ。』
「え、い、今何て。」
『していい、よ。……私なら、大丈夫だから。』

頭がスパークする。握る拳が汗をかく。緊張して、背筋がぞくぞくする。

「していい。」
両親は夜まで帰ってこない。この家に今ふたりきり。
この状況で、この言葉が指す意味は一つしかない。
それは、……。

「ほ、本当に。いいの?」
『(……こく)。』

頷く。肯定。黒くて長い髪が揺れる。
一歩里香に近づく。ぴくっと肩が震える。緊張している。当たり前だ。僕だって緊張しているんだから。
……その時は、そうだと思っていた。

「(すぅぅ……。はぁ…………)。」

大きく深呼吸する。落ち着け。僕がリードしてやらないでどうするんだ。
また一歩近づく。手を伸ばせば届く距離に里香がいる。
何度か触れ合って、抱きしめあったりもした僕たちだけど、にも拘らず、伸ばす手が震える。

『(びくっ!)。』

里香の肩に手を置く。ほんの少し力を込める。
細い肩。ちょっと力を込めれば壊れてしまいそう。透き通った白いうなじから続くそれは、まるでガラス細工のようで。
特にこの冬の、窓から雪を頂く砲台山が見える、凍えそうな白い季節にあっては、尚更壊れやすく、また儚く見える。
そんな秋庭里香っていう女の子の姿は、今にもすうっと消えてなくなってしまいそうな気がした。
……でもその時の僕にはそんなことに気を留めている余裕なんてなくて。

肩に置いた手を背中にスライドさせて、そっと自分のほうへ抱き寄せる。
俯いてその表情は見えない。
しいんと静まり返った部屋の中。僕の心臓は、今にでも爆発するんじゃないかと思うくらい、激しく脈打っていた。

「り、里香。」
『っ……!』

彼女の名前を呼び、抱きしめる腕に徐々に力を込める。
僕の腕の中にすっぽりと入ってしまうほど小さな体。力を入れていくごとに、小さくても柔らかで、そして温かな体が密着していく。
もうどうにかなってしまいそうだ。
あの時、そう。雨の中を無茶して高熱を出したとき。その時の感覚にも似た異常な熱気。

……何分そうしていただろうか。
抱きしめた腕に、触れ合う胸に、全身に伝わって来る熱、鼓動。自分の体が自分のものじゃなくなってしまったような錯覚。
と、抱きしめる腕を緩め、キスをしようと里香の顔を覗き込んだその時、里香の目尻に何か光るものが見えた。

あ、あれ?
里香、泣いている?

先程までの異様なほてりが急速に冷めていくのを感じた。
何故?どうして里香は泣いているのか。何故その瞳に涙が滲んでいるのか。
あまりのことに混乱する。落ち着け。とりあえず今は続けられるような状況じゃない。
と、とりあえず離れるか。

すっ、っと里香の体から離れる。
体が冷えた空気に触れたお陰で、頭が次第にはっきりとしていくのを感じた。

『……え?』
「…………。」
『え、ど、どうした、の?い、いいんだよ?しても。』
「……ごめん。」
『え、な、何?それって……。』

拒絶されたと思ったのだろうか。
そりゃそうだよな。でも……。

「は、はは……。」
『裕一……。どうして?私のこと、嫌いになったの?』
「ち、違っ、」
『じゃあ、じゃあなんで?私はっ……』
「……だって、里香、泣いてるじゃないか……。」
『っ!』

泣いている。自分が泣いている。一瞬耳を疑った。
けど、自分の目尻に触れたとき、

『(はっ!)』
「里香、その、あのな、」
『え、何で?何で私泣いて、……。嘘……。』

その時里香は何を考えていたのか。僕には予想も出来なかった。
でも、この部屋を覆った沈黙のヴェールに気づいたその時から、里香の表情が見る見る歪んでいった。
漆黒の瞳からは大粒の涙が零れだし、折れそうな肩は、今や緊張などとは全く違った思いに打ち震えていた。

『ぅ、う、ぐすっ、ひっく、』
「り、里香?」
『あ、あれ、おかしいな、止まんなく、なっちゃった……。』
「里香っ!」

名前を叫んだ。
里香の体は弱くて、不安定で、さっきも折れそうだなんて思ってしまったけれど、今の里香は本当に今にも折れそうで、ここで繋ぎとめておかなければどこか遠い、二度と手の届かないところへ行ってしまいそうな、そんな不安に駆られた。
だから、彼女の存在をこの世界に引き止めるため、僕は里香を抱きしめた。
さっきはあんなに緊張したのに、今はそれがずっと前からしてきた、当たり前の行為であるように、自然にすることが出来た。

『うわぁぁん……。』
「里香、里香……。」
『裕一ぃ……。』
「大丈夫、オレはここにいるから。」
『うわああああああんん……。』




カァ、カァ……。

街にカラスの鳴き声が響く。
窓から差し込む夕陽は、小さな僕たちを優しく抱いていいるようだった。

『ぐす、ひっく……。』
「よしよし。」
『ぐすっ。』

僕の胸に顔を埋める。
あの気丈な里香がこんなにも感情をあらわにして泣くなんて、少し前の僕なら予想もつかなかっただろう。

『ふぅ……。』
「もう、大丈夫か?」
『うん。』

こくりと小さく頷く。

『……あーあ。見られちゃったよ……。こんなとこ、裕一に。』
「はは……。」
『ああ、もう……。』

くしゃくしゃになった顔を見られまいとするかのように、再び僕の胸に顔を埋める。

『……ねぇ。』
「ん?」
『聞かないの?』
「何を?」
『何で泣いたのか。』
「聞いて欲しい?」
『……裕一は、聞きたくないの?』
「できれば。」
『うん。』

僕から一旦離れてふぅ、と一つ息をつく。

『ちり紙、ある?』
「ああ。ほれ。」
『ありがと。』

ちーん、と鼻をかんで、くずかごに捨てる。

『はぁ。』

ベッドに腰掛け、僕のほうを真っ直ぐに見据える。
雨上がりの空気が澄んでいるように、ひとしきり泣いた後の瞳も透き通っていた。

『あのさ。』
「ん?」
『裕一はさ、なんで私にこんなにしてくれるの?』
「そりゃ、里香のこと好きだから。」
『うっ、そ、そう。えっと、だから、どうして好きでいてくれるのかな。』
「んー、考えたことないな……。」
『……私ってこんなんだから。次の瞬間に生きていられるかもわかんない。好きになんてなっちゃったら、絶対後で辛くなる。なのになんで?苦しいだけだよ?』
「はは、そうかもな。」
『そうかもって……。』
「いや、ま、それでも好きだからさ。里香のこと。普通の人より時間は短いかもしれないけど、一緒にいたいって思うからさ。」
『でも!……でも、私は裕一に何もしてあげられてない。好きになってもらう資格なんて……』

里香の告白。
資格、か。そうか。里香、やっぱり気にしてたんだ。

「はは、いや、オレはもう、里香から色々なものをいっぱいもらってるから。むしろオレのほうが何かしてあげなきゃって思うんだけど。」
『ううん。そんなことないよ。裕一がいてくれたから、私は生きようって思ったんだもん。』
「そっか。……うん。」
『私だけ何もしてあげられてないって思うと、怖いの。裕一を信じてないってわけじゃないんだよ?』

何もない。何も得られないというハンディキャップ。半ば自棄になっていた境遇。
何もないこと、何もないという寂しさを知っているからこそ、余計に大切に思える。元には戻りたくない。

『だけど、だけど……その、やっぱり、裕一に何か喜んで欲しくって……。だから、その、』
『裕一、今日はなんだか機嫌いいし。それで私、嬉しくて。でも楽しいとどんどん怖くなっちゃって。』
「……そっか。じゃあ、」
『?』

そして三度目の抱擁。本当にちっちゃい。僕の腕にすっぽりはまるように作られたお姫様。
まるで最初からここにいるのが当然と言わんばかりだ。他の女の子を抱きしめても、こんな風に落ち着くのだろうか?
なんか、不思議だ。女の子って。

『……あぅ。』
「ん〜、里香はあったかいなぁ。」
『……裕一ぃ。』
「……オレはさ、本当に、これだけで十分なんだ。だから、ありがと。里香の気持ちは勿論嬉しいけど、今はまだ、早い気がする。」
『……うん。』
「また今度。本当に、心から『そうしたい』って思えるときになったら、ね?」
『……わかった。えへ。裕一になぐさめられちゃった。』
「はは。ほーら、よしよし。いい子だいい子だ。」
『ん〜〜。』

里香の長い髪をくしゃくしゃっとやる。
里香はもう一度顔を埋める。
なんか、幸せだ。「幸せ探し」ってよく聞くけど、特別なことなんて実は何も要らないんじゃないだろうか。

『……裕一?』
「ん?」

ふと顔を上げる。目線が重なる。

『(ちゅっ!)』
「??!!!!!」
『(んむ)』
「っ!!!!!!」
『(ぷはぁ)』
「り、里香!?」
『えへ、仕返し〜〜。』
「え、ちょっ、」
『あははっ!!裕一、すっごくとぼけた顔してる〜。』
「里香っ!!」
『あはははっ!』

よかった。里香に笑顔が戻ってきた。
あーやっぱりかわいいな……。

「ふふ、はぁ……。」
『ね、裕一。』
「ん?」
『これからも、どうぞよろしくお願いします。』

急に改まって、深々と頭を下げる。

「ああ、こちらこそよろしくな。」

僕も同じようにお辞儀をする。
そして二人頭を上げ、笑いあう。

……僕らは、これからもこんな、小さな幸せを積み重ねていく。