"The sky which the half moon rises on" Side Story part.2


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§1

『しーん』

……こんな擬態語がある。
その場所が静まり返っていることを表す言葉だけど、それにしても昔の人はすごいと思う。

今、まさに私はそういう場所にいる。
静まり返っている。何の音も聞こえない。
太陽の光、窓を通って廊下へ抜ける風。賑やかな昼間を彩る妖精たちも姿を隠し、後には暗闇と、私の身体がどこまでも深く沈む、凛とした空気が残る。

そんな部屋にも、だけど、半分開いたカーテンから、もう沈みかかっている半分の月が覗いている。
だから真っ暗、というわけじゃない。

半分ぽっちの月。きみはいま、涙を流しているのかな。

……つい、月に見とれていた。
そうそう。『しーん』の話。
そう。確かに何の音も聞こえないんだけど、やっぱり何か音がしている。
耳の奥に微かに響いている。「し〜ん」って。ささやいている。

だから、『しーん』って言葉を作った人はすごいと思う。
何もないところから新しい言葉を作るのってそう簡単にできる事じゃない。


そんなことを考えていたら目が覚めてしまった。
(もう寝てしまおう)
そう思って頭から布団を被る。
だけど何故か眠れない。
ふわふわしている。心が自分を離れて空気の間を漂っている感じ。

「ふぅ」

コンコン。

しばらくすると、今度は窓をノックする音が聞こえてきた。
誰だろう?こんな時間に。
あれ。だけど普通は窓からなんて入れないよね?

ベッドから起き出し、スリッパを履いて窓辺へ。
カーテンを開いて見ると、そこには裕一の姿があった。
私を見ると、口ぱくを始める。

(あ……け・て、くれ?)

言われるがままに窓を開け放つ。

『よっ』
「よっ……って、裕一!今何時だと思ってるの?」
『んー、そろそろ日付も変わる頃かな』
「しかもまた窓から。危ないよ?怪我でもしたら……」
『うはは、大丈夫、大丈夫。里香のためなら空だって飛べるさ』

空も飛べるって。よくそんな恥ずかしい台詞を臆面もなく言えたもんだ。
最近の裕一は変な度胸が付いてきたと思う。

「はぁ?何言ってるの?」
『うはは。それより里香、行こう』
「え?行くってどこへ?」
『そんなの決まっているだろ。ついて来いよ』

と、ドアへ向かって歩き出す。
なんだかよく分からないけど、私もそれに続く。
勿論パジャマのまま。何も持たずに。

東病棟から西病棟へ。階段を下りて一階。そしてナース・ステーションの前を横切り、外へ。

『おっし。何とか抜け出せたな』
「だーから、裕一、どこに行くの?」
『ん?だって里香、前から行きたがってただろ?』

まるで聞く耳を持たない。行きたがってた?どこだろう。

「だから、」
『お、来た来た』

と、目の前にいきなり路面電車が滑り込む。
気がつけばそこは停留所で、電車には灯りが煌々と灯っている。まぶしい。

『ほら、これに乗るんだ』
「え、あ、うん」

電車に乗り込む。整理券を取り、運転席の後ろのロング・シートへ腰掛ける。
こんな時間だというのに人は結構乗っていて、みんなリュックサックや、おじいさんおばあさんは杖なんかも持っている。
これからどこへ出かけるのだろう。山登りみたいだけど……。

「どこまで乗るの?」
『丁度終点までだな。小銭用意しとけよ』
「分かってるわよ」

電車は夜の道を軽やかに進んでいく。
信号なんかも気にしない。時々、本当に時々通りかかる車は、私たちが通り過ぎるのを待ってくれる。

ガタン、ガタン……。

<次は、……前。お降りの方はお近くの降車ボタンを……>

規則的な揺れに身を任せ、隣に座る裕一の肩にもたれていると、停留所も景色もいつの間にかに過ぎ去る。
そしていくつ目かの停留所に差し掛かったとき、向かいに座るおじいさんがボタンを押した。

<次、停まります>

車内のあちらこちらについているボタンに赤い光が灯る。
直後電車はスピードを緩め、ほんの1分としないうちに完全に停車した。

みんなここの停留所に用があるらしい。杖を持ったおばあさん、リュックを担いだ若者。乗っていた殆どの人が席を立ち、前方の降車口へ向かう。

「えーっと、降りなくていいのかな?」
『ああ。この次だな』

チャリン、チャリン。

料金箱に運賃を入れる音。

ウィーン……ガシャガシャガシャ……。

あーあ、両替は前もってやっとかなきゃだめだよ。

そして、今まで乗っていたよりも長いように思われた時間が過ぎ、最後の青年が降車口をくぐる。
ドアが閉まり、動き出す。

ウィーーン。

今までとは違った、高いモーター音。
そして、いきなり激しくなる揺れ。
思わず裕一の方に倒れこんでしまう。

「わっ!」
『大丈夫か?少し揺れるぞ』
「う、うん」

ガタンガタン、……。

電車はさっきよりも深い暗闇を進む。
真っ暗な電車の窓に、私たちの姿が映る。

車内を見渡すと、白衣を着た……なんだろう。お医者さんみたいな人が手すりに突っ伏して寝ている。
乗り過ごしたのかな。起こしてあげたほうがいいかな?

<ご利用ありがとうございました。次は、終点 砲台山山頂……>

耳覚えのあるフレーズにどきっとする。
今、砲台山って言ったよね?

「ゆ、裕一。もしかして行き先って」
『そ。ずっと行きたがってただろ』
「うん、まぁ」

<この電車の終点です。どなた様もお忘れ物のないように……>
[ご利用ありがとうございます。次は、砲台山山頂。終点。終点でございます。]

女の人の声のアナウンスの後、運転士さんのアナウンスが入る。
直後電車は足を緩め始め、見る見るうちに停車した。

プシュー……。

前方の降車口が開く。

『ほら、降りるぞ』
「う、うん。えと、お金は」
『360円か。里香、丁度そのくらい持ってなかったっけ?』
「え、えーっと」

持ってきたかばんの中からお財布を探す。
中には370円入っていた。

『ほら。ここに入れるんだぞ』
「うるさいわね。分かってるわよ」

チャリン、チャリン。

5枚の硬貨が運賃箱に吸い込まれる。

[お気をつけて〜。]

運転士さんの間の抜けたような声に押し出されて電車を降りると、暗闇に包まれる。
明かりに慣れた目では最初は何も見えなかったものの、しばらくすると段々目が慣れてくる。
そこは山頂の駐車場だった。

けど、そう。そこから少し歩けば「本当の山頂」に着く。
裕一は私の手を引いて歩いていく。
行き先は勿論、この山で「一番高いところ」。
前に来たときは足に怪我をしていたせいで上手く歩けなかった道も、今日はずんずん進んでいける。

程なくして、台座のある「そこ」に辿り着いた。少しあっけない。

辺りを見回せば、眼下には伊勢の町並み。空には満天の星。そして半分の月。
……町並みは良く見えないけど。

『着いたなあ』
「うん。そうだね……」

それは、今まで目にしたどんな星空よりも美しい星空。

「きれい……」
『ああ。ほら、登れよ』
「ん」

砲台の台座に登らせてくれる。空がまた一段と近くなる。
前にも、そうだ。裕一が抱っこしてくれて。

以前、裕一が言ってくれた「言葉」を思い出して、少し嬉しくなる。
またここに来ることが出来た。

そして空を見上げる。

えーっと、天の川は……あれ?

直後、その「異変」に気がついた。

「裕一?ねえ、おかしいよ。天の川がない。シリウスも、レグルスもない」
『…………』
「あれ、北極星も。北斗七星も」
『…………』
「ね、ねえ!どうなってるの?ここ」

突如、不安に襲われる。ここは、ここは怖い……。
一緒にいる裕一の姿を探す。

「ね、ねえ、裕一」
『…………』
「え、ねえ!ちょっと!何で黙ってるの?」
『……あ、ああ。里香』
「ああじゃないよ!ねえ、おかしいよ?」
『う〜ん』
「う〜んって。ねえ、私たち、ちゃんと帰れるの?」
『そうだなぁ……』
「そうだなって。ねえ、電車は?帰りの電車の時間はいつ?」
『ない』
「っ!!」

ない?
ないってどういうこと?

『さっきのが最終だったからなぁ』
「最終……。あ、あれ?電車は?確かさっきまでそこに……」
『ん?あれならほら』

と、夜空の一部を指差す。

『回送されて行っちゃった』
「え?」

裕一が指した辺りをよく見ると、地上から空へと昇っていく光の点が見える。
あれがさっきの電車?
そんな。どうしよう。

「え、ねえ?何でそんなに落ち着いてるの?裕一?」
『あ、ああ。……里香』
「なによ」
『大事な話があるんだ』
「え、どうしたのよ。こんな時に」
『ああ。その……。俺は、ここまでだ』
「え?」

ここまで?
どういうこと?

「何それ。どういうこと?」
『俺は、もう行けない』
「行けないって……」

突き刺さる恐怖。
怖い。怖いよ。
星の光が冷たい。

『ここまでなんだ。だから……』

と、去っていこうとする裕一。

「やだ!やだよ!!ねえ、待って。待って!!」
『ごめん……。……大丈夫だよ。里香はこの先も、大丈夫』
「この先って何?ねえ、だめ!行かないで」
『ごめん。本当にごめん……。……だめだ。もう行かないと』
「あ、ねえ。私も連れてってよ。いいでしょ?そうしないと許してあげないんだから」
『ごめん。それは、出来ない』
「なんで?絶対に許してあげないんだよ?裕一は、それでもいいの?」
『ああ。里香。ごめん。またな』
「え、ちょ、ちょっと……ぉ」

裕一の姿は、あっという間に夜の闇に吸い込まれる。
裕一の座っていた台座の部分も、夜風に晒される間にみるみる冷たくなってしまう。 後にはさっきよりも輝きを増す星たち。

「ちょっと待ってよ。……嘘。嘘でしょ?」
「やめて。やめて……。ねえ。裕一、裕一ぃ」

乾いた風が吹き抜ける。
木々を揺らす。ざわめきがうなり声も聞こえる。今にも襲ってきそう。

「ねえ。お願い。待って。……一人にしないで……っ」

寒い。暗い。怖い。

「怖いよ……。暗い。裕一ぃ……」

あ、それとも。
そうだ、そうに違いない。

「ゆ、裕一、そんなこと言って私をからかおうとしてるんでしょ?」

裕一が消えた方向へ言葉を投げかけてみる。

「騙そうとしてもだめなんだよ。私には全部お見通しなんだから」

全く。この私を驚かそうなんて、裕一なんかには100年早いんだから。

「ほら。出てきなさいよ」

これは、そう、嘘。嘘。……嘘なんだってば!
――そう自分に言い聞かせる。

「ほ、ほら。い、今出てくればまだ許してあげるわよ」

……ざわ、ざわ。

「そうね。そうだ。今なら私、裕一がして欲しいこと何でもしてあげるわ」

…………。

「だ、だからっ!いい加減出てきなさいよっ!!」

ごぉ…………。

「ゆ、裕一?ねえっ、どこ、いっちゃったの……?」

何とか繋ごうとした希望は、残酷にも消え去る。

「ぅう、ふぇっ、ぐす……。ね、ねえって、ばぁ……」
「お願い。ねぇ、さ、寒いよ。裕一……」

§2


(はっ!)

意識が急に引き戻された。
あれ。確か今まで私、砲台山の山頂に……?

〔えー。であるからして、このソレノイドLは自己誘導を……〕

あ、あれ?
辺りを見回す。
あれ、ここはいつもの教室?

〔ではこの磁束密度を……、今日は20日だから20番。高崎!……なんだ寝てるのか〕

私、確か今電車で……。

〔しょうがねえなぁ。よく見とけよ?今この透磁率をμ0とするぞ?〕

そして意識が自律を取り戻す。
……そっか、私、寝ちゃってたんだ……。

キーンコーンカーン…………。

〔なんだ終わりか。よし、次の時間はこの続きだ〕

(どのくらい寝てたのかな?)
机の上を見ると、1時間目のテキストがまだ出たままになっている。

(おい。今日は昼飯どうするんだ?)

昼……。今のは、物理。そうか、4時間目か。
私ったら4時間も寝ちゃってたのか。
うわ、嫌な汗もかいてるし。

(それにしても)

変な夢だった。
裕一が私を置いてどこかに行ってしまうなんて。
裕一、確か「ずっといっしょだ」って言ってくれてたよね?

(あれ、そうだっけ?)

急に自信がなくなってきた。
夢の暗闇が脳裏をよぎる。不安が心を飲み込んでいく。

(っ!!)

ガタッ!

確かめずにはいられない。席を立ち、上の階の裕一の教室へ。
教室を出るとき、そばにいたクラスメイトに見られていたようだが、そんなことは全く気にかからなかった。

§3


〔戎崎!おら起きろって!〕
「ん……、おお、山西じゃねーか。元気してたか?」
〔何寝ぼけてんだよ。それより飯だ。今日はお前、どうするんだ?〕
「あー、飯ね。学食、かな」
〔うっし、そうと決まれば、ほら、行くぞ。立った立った〕
「お、おお」

こちらは2年の教室。昼休みの開始を告げるチャイムに目を覚ました裕一だったが……。

(んん?)
(山西?)

元・同級生の山西保は現在3年生。
そしてここは2年の教室。

「山西、って」

勿論そこには彼の姿はない。
夢とも現実ともつかない妙な感覚だった。

(寝ぼけすぎだろ……俺)

「んんーー」

一つ伸びをする。

「飯食お。飯」

いつまでもぼけっとしてても仕方がないので、腹ごしらえに学食へ行くことにした。

(寝てても腹は減るもんだな)

そんなどうしようもないことを考えつつ、席を立つ。
とは言え、実際机の上には1時間目のテキストでさえも出ていなかったのだが。

机と机の合間を抜けて廊下へ。
この絶妙な疎外感だけは、いつまで経っても慣れないものだ。

教室を出たら、右へ。
突き当たりの階段を下へ降りれば学食だ。

「ちなみに、」

これは豆知識だが、と前置きする。

「昇降口から上上下下左右左右BAと進むと、」

踊り場からちらりと脇を見る。2階の廊下を進めば、泣く子も黙る、

「……職員室につくんだ」

(ひっ!)

ぼそぼそとつぶやいていたのが聞こえたのか、すれ違った女子生徒に思いっきり引かれてしまった。

「って、キャラ違うし」

(そもそも「B」とか「A」って何だよ。ダッシュやジャンプしろとでも?)

ていうか、そんなことしているのが鬼大仏辺りに見つかったら、まず間違いなく指導室送りだろう。
……これも豆知識だが、指導室は職員室の隣だ。

(アホか)

どうも頭がぼうっとしている。先に顔でも洗ってこようか。
しかし、そんなことをしていたら食いっぱぐれてしまうだろう。

「なんか面倒だな」

食べ盛りのこの身体から沸き起こる食欲をなだめられるほど、僕は「気を紛らわす術」について長けてはいないつもりだが、本日はいつもとは多少具合が違う。ずっと寝てたし。

「どうしよ」

金もないし。

……などと余計なことを考えている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。
あー、ありゃ1年坊主の群れか。

学食に不慣れな(伊勢の場合、殆どの中学は給食なのだ)1年は基本的に要領が悪いので、時間をずらしたり、4限の終わりにこっそり抜け出したり、……まあそんな手段を使わなくても、朝のうちに食券を買っておくようなことはしない。

従って、彼、又は彼女らの授業が終わった後では、ゆったりとランチを愉しむような余裕など、それはもうバーミヤーンの大仏のように綺麗さっぱりなくなっているのだ。

学食が二つあればいいのに。僕は時々そう思う。競争原理が働かないから、A定だっていつまでも美味くならないんだ。
……これは司からの受け売りだが。
司の兄貴もこの学校の卒業生だ。そのお陰で色々と事情通だったりする。

(後で軽く食べればいいか)

そう思い、踵を返す。
一旦は降りた階段を無意味に登るのもなんだかしゃくだ。

そして2年教室の廊下まで戻ってくる。
普通は1年ごとに廊下の風景も微妙に変わってくるものだが、……やめよう。考えると切なくなってしまう。

「んー?あれは」

と、自分の教室の方を見やると、黒髪、ストレートの見覚えのある後姿が目に入る。
しきりに中を覗いているようだが、誰かに用があるんだろうか。

「って俺だよな」

放課後は(当然)僕が迎えに行く立場だし、里香がこっちの教室に来るってのは相当珍しいことなのだが。

「おーい」

軽く呼びかけると、彼女は身体を正面に向けたまま振り返る。
「見返り美人」なんてのもあったな。そういえば。

そして、僕の姿を見つけるや否や、こちらの方にダッシュしてくる。

『裕一ー!!』
「っておい、走るな!」

(な、何だ?もしやそのまま飛び蹴りでもかますつもりなのか?)

……などと、ありえないことを考えつつ身構えていると、

「う、うわっ!」
『裕一!裕一ぃ!!』

(……誰?)

この台詞、里香にはかなり失礼な話だ。悟られないようにしなきゃな。

「え、あ、ちょ、おまっ!」
『はぁ、はぁ……やっと、会えた』
「あ、会えたって。一体どうしたんだよ?」
『そ、それがね……』

そこまで口にしたかと思うと、途端に目尻に大粒の涙が浮かぶ。

「お、おい!大丈夫か?」
『ふぇ〜ん……』
「あ、あのー……」

と思ったら泣き始めるし。出合った頃から比べるとえらい違いだ。
ついでに言うと、退院してからもかなり変わった。
環境というのはこうまで人を変えるものなのだろうか。

……とか何とか考える間に、周囲には人だかりが形成される。

視線が痛い……。
何の修羅場かと期待して見ている様な奴もいれば、女子からは……すごい形相で睨まれた。

(いや、ほら、今回は何もしてないって!)
(いきなり泣きついてきたっていうか、)

と頭の中で言い訳を試みるが、そんなものを聞く耳はお持ちでないらしい……。

って、それよりも里香だな。

「ほ、ほら、」
『……ぐす』
「ほら、泣き止んで」

僕が里香を慰める?
僕はまだ寝ぼけてるのか?
いくらなんでもありえない展開に、さっきから混乱しっぱなしだ。
……のだが、夢にせよ現実にせよ、こんな状態の里香を放っておくなんて選択肢は僕にはなかった。

「えーっと、その、ここじゃなんだし、とりあえず場所を変えよう」
『(こくっ)』

俯く里香の手を引いて、屋上への階段を登る。


ギィイ……。

以前の病院のそれのように重く錆付いた扉を開くと、フェンスに囲まれた一帯が姿を現す。
学校の屋上というのは園芸などには持って来いのロケーションでもあり、また生徒からの要望もかなりあったそうで、出入りは自由となっている。
園芸部諸君には是非がんばってもらいたいものだ。
何故って、屋上に植物がわんさか生えているのを思い浮かればすぐに分かる。
……ほら、モヒカンみたいに見えそうだろ?

まあそんなくだらないことはさておき、屋上にはあちこちにもう使われなくなった長いすなどが置いてあるのだが、そのうち余り目立たず、かつ入り口からも見えずらい場所に空きを見つけ、そこに誘導する。

「ほら、こっち」
『……』

黙ってついてくる里香。
本当に、どうしちゃったんだろう。

§4


「夢?」
『うん』

里香は、僕がしばらく手を握っていると(というか里香が離さなかったのだが)、ぽつりぽつりと話し始めた。

何でも、怖い夢を見たらしい。
朝にはいつも通りだったから、夢を見たってことは授業中に居眠りしてたってことだけど、そんな言ったら怒られそうだし、何より僕自身、人のことなんて言えないので黙っていた。

「路面電車ねぇ……」
『うん。そうなの。おかしいんだよ?私、一度も路面電車になんて乗ったことないのに』
「そんで、空に飛んでったと」
『そう。その時の裕一、なんだかすごく落ち着いてた。全部諦めちゃったみたいな……』
「……『銀河鉄道』?」
『でも、そうだとしたら裕一は、……。だからその、ちょっと怖くなっちゃって』

話はこうだ。
深夜、里香の病室に僕が窓から入ってきて、病院の前から路面電車に乗って砲台山へ行った。
山頂まで行くと、僕は「もう行けない」と言って里香の前から消えたというのだ。

「……それにしても変な夢だな」
『うん』

怖い夢を見ることというのは、誰にだってあるものだ。
僕だって、幼い頃はよく見ていた。
夢の内容は大体同じで、そこには必ずと言っていいほど「暗闇」なり「静寂」があったりして、所謂お化けみたいなものが現れてどうこうといったものではない。
何も見えない、何も聞こえない。そして自分以外に誰もいない。
ただそれだけなのだが、人間という生き物にとってはそういうのが実は一番堪えるのではないだろうか。
里香なんかは特にそうだよな。

里香は、嗚咽を零すことはなくなったものの、未だにその頬には涙の跡が残っている。
「千の言葉で語りかけるよりも強く思いを伝える方法」
そんなことを昔、山西の奴が言っていたような気がする。
内容は……まぁ、ここは学校だし、その全てを実行するのもためらわれるので、とりあえず両手をぎゅっと握る。

里香の方もそれに呼応するように身体を預けてくる。
見られてない…………わけないよな。
少し振り向いて見ると、……いるわいるわ。その瞳は24程度ではとても足りないだろう。

§5


キーンコーンカーン……。

昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り響く。
階段の塔の庇の下にスピーカーがあり、そこからチャイムや放送が流れるのだが、直接ではないにせよ雨風にさらされているせいで、時々ひび割れたような音になる。
それをまた風があちこちに持っていったりして、校舎内や、同じ屋外であってもグランドなんかで聞くのとは全く異なった音となって聞こえてくる。
近くで鳴っているはずなのに、どこか遠くから響いてくるようなその使い古された電子音は、フェンス越しに眼下に望む、葉をすっかり落とした並木たちが歌っているようにも思われた。

「なあ、そろそろ」

さっきから何もしゃべらない里香に声をかける。

『そう、だね』
「立てるか?」
『だいじょぶ』

繋いだままだった手を引いて里香を立たせる。

「うーん。その夢にどんな意味があるのか分からないけど、」
『うん』
「俺はその、大丈夫だから」
『……本当?』
「本当だって。……その、ずっと里香のそばにいるからさ」
『ん。……そうだね』

こつん、とおでこを肩に預ける。
里香の長い髪が風にそよぐ。

……すぐ脇を通って校舎内に入っていく生徒の顔が、ことごとくにやけているのが気になるが。
とりあえず無視だ。

たっぷり10秒ほど経ったのち、顔を上げる。
その表情はまだどこか硬かったが、何とか安堵の欠片を見ることが出来た。

『おっけ』
「よし。元気出たみたいだな。戻ろうぜ」
『ん』

§6


〔夢?〕
「ああ」
『里香ちゃんが?』
「そうなんだよ。昼にいきなりさ」

放課後。里香を家まで送った直後、家に帰る途中。両「先輩」に遭遇したのはその時だった。
山西なんかには正直あんまり出会いたくなかったのだが、3人で話すのも久しぶりだし、それに例の「夢」の話に山西がやけに乗ってきたこともあり、今、こうして世古口家で会談に及んでいるわけである。

人間というのは得てして、その外見からは全く思い至らないような趣味を持っているものだが、山西もその例に漏れないようだ。
奴の場合、その一つが「夢」だったということなのだが、さてはTVか何かで「夢診断」の類の知識でも植えつけられたか?

〔そんで?もうちょっと具体的に聞かせろよ〕

いくら「先輩」とはいえ旧くからの付き合いだったもんだから、特に意識さえしなければ、元と同じ、普通の友人として話すことが出来る。

「んー。何でも、……」

里香に聞いた「夢」の話を説明する。

〔路面電車?〕

「電車」という言葉に反応したようだ。

「ああ。で、おかしいんだよ。里香は生まれてこの方、一度も路面電車になんか乗ったことはないらしいんだが、」
〔おう〕
「それがやけにリアルだったらしいんだ。ほら、路面だと普通のと違って整理券で乗ったりするだろ?そういうところとかさ」
『なんだかバスみたいだね』

山西がしきりに身を乗り出してまで聞いてくるせいで、さっきから全く口を開くことのなかった司だったが、ここに来てやっと言葉を発す。

「って、司も乗ったことないのか」
『う、うん』
〔そんでそんで?〕
「……今話してやるからそんなくっつくなよ」

夢の路面電車について話して聞かせる。
詳しいところまで質問してくるもんだから、僕はああこれが鉄っちゃん魂なんだ、としみじみした。
そんな形式だのパンタグラフの形だのなんて覚えてない、ってか里香からそんなところまでは聞いてないぞ。

〔どうにも曖昧だね。君〕
「はぁ……」

どうやら探偵気取り(?)らしい。
山西自身に関してはどうでもよかったのだが、これは里香の問題である。
僕は特に夢に関する知識など持ち合わせているわけではないので、折角奴も乗り気なことだし、適当に調子を合わせておくか。

「そんで。事件の真相は?」
〔んなもんわかんねーよ〕
「おいっ!」

……と思ったのだが、やはり山西は山西だった。

『お茶入ったよ〜』
「おお、さんきゅ」

とここで、いつの間にか席を外していた(恐らく、僕が山西に「電車」について質問攻めにあっている間だろう)司が、3人分のお茶を携えて戻ってきた。
本当に気が効く奴である。

〔うーん。戎崎はどうなんだ。例えばどこか見覚えがあるとか〕
「路面電車……は、確か小さい頃に乗ったような覚えがあるんだが、そこまではっきりとは」
『でもさ、里香ちゃんは乗ったことはないっていうんだろ?』

こくり、と頷く。

〔まあ、しかし、あれだな〕

ずずずっ。
地味に美味しいお茶をすすりながら、こう続ける。

〔なあ司。お前もそう思うだろ?〕
『だよねぇ……』

二人きりで何か分かり合ってる様子だ。

「ん?なんなんだよ」
〔いやほら。だってさ〕

司は横で頷いている。

「だから、なんなんだよ」
〔てか戎崎、お前気づいてないわけ?〕

山西のはっきりしない態度もそろそろ慣れっこだが、やはり焦らされるというのは気分が悪い。
一発、何か技をお見舞いしてやろうか。

「はあ?意味わかんねえよ」
〔司ぁ。戎崎ってこんなに鈍かったっけ?〕
『うーん。でも、こういうところはそれほど変わってないような』
「だーかーら、説明しろっての」
〔説明って、だからな、戎崎〕
「ああ」

と、そこまで言ったにも拘わらず、中々先に進めない。

愛の告白に限らずどんなことでもそうだが、一旦考えてしまうと何も話せなくなってしまう。
よく「考えてからしゃべれ」なんて言うが、いちいちそんなことしてたら国会なんて何年あっても終わらないに違いない。

〔んーっと、だから、そのな〕
「はっきりしねえなぁ」

そろそろこちらとしても我慢の限界なのだが、ふと、頭の片隅に里香の不安げな表情が浮かんだ。
そっちに気が行ってしまうと、怒る気も失せてくる。

〔あー、俺便所行ってくるわ。司。後はよろしく〕
『ええ?僕?』

逃げやがった……。
まあ、司も山西と同じ考えのようだから、こちらに聞いても同じだろう。

「どういうことなんだ?」
『言っていいのかなぁ……』
「もう構わないからさっさと話してくれ」
『うん。えっと、その夢って裕一が出てきたんでしょ?』
「らしいな」
『それで夜中に一緒に砲台山に行ったと』
「うむ」
『裕一は前、似たようなことしたよね』
「あ……ああ。あの時はさんきゅな」
『うん。で、ずっと病院で過ごしてた里香ちゃんにとっては、あんなことされた思い出ってのはすごく強烈に残ると思うから、それは分かるんだけど』
「おう」
『でもさ、‘裕一がいなくなって’寂しいってのは……』
「……」

こいつらの言わんとしていることが分かった。
そうか……。
冷静に考えれば、これって一種のノロケみたいなもんでもあるよな。

司が僕を見すえてこくりと頷く。
こちらも頷き返す。

〔そうそう。しっかり愛し合っちゃってるんじゃねーかよ。と〕

そして絶妙なタイミングで戻ってくる山西。
流す音が聞こえてから随分経つし、これは謀ったに違いなかった。

「いや、だから、これは里香が見たんだって」
〔でもお前のことじゃん〕
「ぐ……。それはそうだが」
『それに、その……。普通なら里香ちゃんのほうが……』
〔(おいっ!)〕
『あ、ご、ごめん』
「ああ。まあ、そうだよな」

一応の覚悟は出来ているつもりでいたが、それでもやはり、なるべくならば頭の隅に追いやってしまいたいものだった。
ちなみに、あの話では先に降りた方が川に落ちた(落ちていた)のだが、これに照らし合わせれば僕の方が先に……いなくなることになる。
交通事故なんてこともあるし、その可能性はないわけではないのだが……いい。やめよう。
妙な方向へ考えが進んでいきそうだったので、もうぬるくなってしまったお茶を一気に飲み干す。

場が暗くなってしまったので、(僕自身余り考えたくないことでもあったし)適当な冗談を言って和ませようとしたのだが、不発に終わった。
それでその場はお開きとなり、僕は半分壊れた自転車を引いて、昼に里香の触れた肩の辺りをさすりながら、家路に就いた。

§7


考えというものはどうにも一所に留まることを知らないらしく、一度呼び出された感情は日に日に大きさを変え、姿を変え、その人を苛むものらしい。
昨日分かれるときは何とか笑顔を浮かべていた里香も、また夢を見たのかもしれない、今朝になってみればどんより曇り空なのだった。

別に全員が「強い」人間である必要はないと思う。そのために支えあうのだから。
僕自身の、男としてのある種の感情を抜きにしても、やはり頼ってくれるというのは嬉しいものである。
が、同時に、それ以上に不安でもあるのだ。

今朝は出会ってから余り口をきかないし、何より手を硬く繋ぎっぱなしだ。
いくら知れ渡っているとは言え、登校してくる大勢の生徒の前でこのような姿を晒すのはなるべくなら避けたいところではあるのだが……。
ほら。鬼大仏なんてのもいるし。見つかったらただじゃ済まないだろう。

その朝は何とかそれぞれの教室に分かれることが出来たものの、昼休みになって飯を食いに教室を出たら、そこには里香が待っているのだった。
一つ年下のクラス・メイトの中には、そうして迎えに来るというのを勘違いしている者も多いらしく(とはいえ、実際その辺の事情なんて彼らには知る由もないのだが)、大声を上げてはやし立てるようなガキンチョこそいないものの、そういう意図があるのは視線で感じられるのだった。

(おら、そこの2年坊主!みてんじゃねーよ)

と、席を立ってから里香の元へ行くまでの数秒間、視線で精一杯の抵抗を試みるのだが、多勢に無勢なのは火を見るより明らかだった。

「……よぉ」
『やぁ』

こちらの呼びかけに応える声も弱弱しい。こりゃ重症だな。

「んと、ほら」

俯く里香に右腕を差し出す。
さすがに校舎内で腕を組むのには抵抗があるらしく、左手を僕の手に重ね、握ってくる。
僕もそんな手を握り返す。

「とりあえず、行くか」
『(こくり)』


ギィィ……。

昨日と同様、重い扉を押し開けて屋上に降り立つ。
まだ早い時間なこともあって、人影はまばらだった。

昨日と同じ長いすに里香を誘導し、腰掛ける。

『……』
「……」

無言。
あいつらは「愛し合ってる」なんて言ってたが、そう簡単なもんじゃねーんだぞ。
……なんて、少し生意気だな。ガキのくせに。

「万の言葉にも勝る‘行動’」か。
言ってたのは……えーっと、誰だっけ。

ひゅぅぅ―――。

「少し冷えるな」
『うん』

退院したといっても重病持ちの身である。
用心のためにカーディガンを羽織っているのだが、スカートのため足なんかは冷えそうだ。
余り長居は出来ないな。

「あのさ」
『うん』
「ほんとに、大丈夫だから。俺は」
『……うん』
「絶対、お前を置いてどこかへ行ったりなんかしないから」
『(こくり)』
「だからさ、その……」

こういう時、どうすればいいんだろう。
不安が心を支配して、それでその不安がまた新しい不安を作り出して。
信用していないわけじゃないと思う。だけど、「明日がある」なんて言葉のどこに根拠があって、そして自分でさえ納得なんてしていないのに、それを他の人に押し付けることなどが出来るというのだろう。

「将来」なんて言葉にしてもそうだ。
自分が「将来」も生きているなんて、一体誰が保証してくれるというんだ。

もし明日隕石が落っこちてきたら?
大地震で寝てる間に家ごとつぶされてしまったら?

だから、もし病気なんてなかったとしても、僕らに「明日」なんてものはないのだと思う。
あるのは今のこの瞬間だけ。長すぎる坂道。そして明日の記憶。それは、夢の絵日記。

「普通」に生きてる奴とどこが違うかといえば、それは「明日」なんてものを漠然と信じていられるかどうかってことだ。
出逢ったときの里香は、まるで世界の全てを諦めているようだった。
初めて砲台山に登ったとき、里香はなんといったと思う?
――「覚悟が、出来た」

それと比べれば、今の里香は大分「普通」寄りになっているとは思うのだが、やはりこの「夢」みたいなことがあると……思い出しちゃうんだろうなぁ。色々と。

「あのさ」
『うん』
「こっち、向いて」

ゆっくりと顔を向ける。
ええと。よし。大丈夫だ。いける。見ている奴なんて一人もいない。
……いないんだよ!

ちゅっ。

その小さな唇を塞ぐ。
里香は、その瞬間こそ驚いた様子だったが、すぐに目を閉じ、右手を僕の肩に手を乗せてくる。
左手はさっきからずっと繋いだままだ。

ぽふっ。

そして抱きしめる。
あー、見られて……るな。まあ、大丈夫だろう。きっと。多分。

左腕を背中に回し、右手で髪をなでてやる。
こんなにおとなしいとまるで猫みたいだ。

あーあ。全く。どうしてこうも女ってのは(て言っても里香が初めてだが)。
――こんなに柔らかくて。
――こんなにいい匂いがして。
――両腕で抱えられるくらい小さいのに、こんなにあったかくて。
そして、

とくん、とくん。

……心臓の鼓動が響いてくる。
それは確かに、秋庭里香という一人の女の子が、今、この瞬間、この世に、僕と同じ世界に生きているという証だった。
それも、いつだか分からない「いつか」には止まってしまうと思うとどうにも切なくなってしまい、腕に込める力を少し強めるのだった。

§8


キーンコーンカーン……。

そして予鈴が聞こえる。
最後に一つ、ぎゅっと強く抱きしめると、ゆっくりと里香から体を離した。

『ふぅ……』
「……」

さっきまで僕の胸に埋められていた彼女の顔は、少し紅潮していた。
かく言う僕も、実際のところさっきから緊張しっぱなしで、風がやけに涼しく感じるところを見ると、きっと僕の顔もまた真っ赤なのだろう。

『ゆういち』
「ああ」
『その……ありがと。元気、出た気がする』
「ああ。そりゃ、よかった」
『あはは。昨日から裕一には甘えっぱなしだね。こんな積りじゃなかったのになぁ』
「こんな積りって?」
『退院したら、裕一をもーっとこき使ってあげようと思って』
「おいおい。勘弁してくれよ」
『でも、そんなこと言って、実は私の方が一番助けられてたんだなって』
「まあ、お互いにな」
『そだね』

軽口など言ってみたりして、里香の方にも少し余裕が出てきたのかな?
願わくば、このまま「いつもの」里香に戻ってくれればいいのだが、どうだろう。そう簡単にいく様子でもないか。

「あのさ」
『うん』

……ここに来て改めて思うのだが、やっぱり素直な方が可愛いよな。

「夜、とかさ。暗い部屋で一人になっちゃうと、どうしても眠れないこととか、あると思うんだ」
『……うん』
「そしたらその、えーっと、どうしようかな。その、今みたいなことくらいならいつでもしてあげられるから」
『なに?私がそんな弱虫に見える?』
「はは……。だからさ、あんまり遅くは困るけど、電話とかで連絡してくれれば駆けつけるから」
『……うん』
「だからさ、無理だけはしないでくれよ。俺としても色々力になりたいしさ」
『ありがと。裕一』
「里香のためならお安い御用だって。……さ、そろそろ戻ろうぜ」
『そだね。……裕一、女たらしになった?』
「え?そ、そうかな」
『うーん。こりゃ、だめだね。私が面倒見てあげなきゃ。こんなへたれにたぶらかされたら、その人がかわいそうだもん』
「ちょ、そ、そりゃねえだろ?」
『あはは。冗談だよ。冗談』
「里香のは冗談に聞こえないんだよ……」
『うん。……でも、嬉しかった。ありがと』

と言ってにっこりと微笑む。
あーだめだ。すっげー可愛い。


ギィィ……、バタン。

階下への扉が閉まる。
直後、空を覆っていた雲の合間から一筋の陽光が差し込み、二人が座っていた長いすを照らすのだった。