"The sky which the half moon rises on" Side Story part.3


creation: 2006-7-3
current version: 2
last update: 2006-8-4

§1

(こくり、こくり……)

リリリリッ!!

(はっ!?)

カチャ。

『え、えと』
「……よぉ」

§2


いくら伊勢が(そりゃ、名古屋とか東京なんかに比べれば)田舎だとは言っても、旧き良き日本の原風景に見られるように、窓も玄関の鍵も開けっ放しで熟睡できるほど近所同士の信用が篤いわけでもなく、また人の出入りにしてもそれなりに存在する。
従って、噂に聞くところの「渋谷」や「六本木」ほどではないにせよ、こんな夜中に外を出歩くのが全く安全かというと、決してそんなことはない。
とは言え、出歩いてる本人はいい年した男子高校生であるのだから、そういう「危険」という意味では、女の子が出歩くのなんかよりは多少はましではある。しかし、パトロール中のおまわりさん(見回りご苦労様です)や、学校の教師、特に生活指導担当の鬼大仏以下数名(さっさと寝ないと明日に響きますよ先生)に出くわすのを、危険と言わずに何と言えばいいのだろう。

結局のところ、「超人」になどとてもなれはしない僕のような人間としては、確かに明日に響くというのもあるのだけれども、それ以上に睡魔を押さえ欠伸をかみ殺してまで出かけたくなどはないのである。
だから、これがもし、例えばかの山西先輩(先輩、最近ちょっと調子に乗りすぎてません?)なんかのお呼び出しだというのなら、それを伝えるところの電話線などは、着信音の最初の「リ」を聞いた瞬間に引っこ抜き、翌朝その非常識さについて文句の一つでもつけてやるところなのだ。

「さぶ……」

いくつ目かの角を曲がると、向こうに一軒だけ、二階の一室にまだ明かりの点いている家が見える。
このシーンを何度目にしただろうか。僕は少し、里香を見くびっていたのかもしれない。
……あと、少しばかり甘すぎたか?

数歩歩みを進めると、常夜蛍光灯の頼りない明かりに照らされたその家の前に辿り着く。

「秋庭」

うん。確かにここだ。間違ったらえらいことになる。
呼び鈴を押すわけにも行かないので、その辺に転がっている適当な小石を見繕い、二階の明かりに向かって投げつける。

カツン。

石が窓に当たる。直後、下の階の雨どいに落ちる。
しくじった……。プラスチック製の雨どいには、石のぶつかる音はかなり大きく(今が深夜であることのバイアスも勿論あるだろうが)聞こえるものなのだ。角度が悪かったな。

大きな音を立てることを警戒するのは、やはりその家主を起こさないようにするためだが、実際のところ、週に三・四遍も決まって窓ガラスに何か当たる音がして、直後に二階で寝ている「はず」の娘がそろそろと階段を降りていくパターンが続けば、家主こと里香の母親の眠りがよほど深いものでない限り、恐らく気付かれていることだろう。
……まあ、気付かれまいが気付かれようが、こんな時間に「密会」するというのにはやはり抵抗がある。
例えそうでないにしても、こっそり家を抜け出すのには色々と困難が伴うし、第一、何度も繰り返すのは恐縮の限りなのだが、最近寝不足で……。

カチャ。

玄関の扉がそろりと開き、向こうの暗闇から里香がその顔を覗かせる。

『裕一』
「……うす」

返事も自ずとぶっきらぼうになってしまう。

『ご、ごめんね。こんな時間に呼び出したりして』
「いや、大丈夫。大丈夫」

ここでは「大丈夫」であって「構わない」ではないって辺りがポイントかな。
そりゃ、僕だって里香とはいつでも一緒にいたいけど、ほら、一人の時間も大切って言うし。
……それよりも睡眠時間かな。倦怠期の心配をするほど僕らはスレてない積りだ。

と、当の里香はそんな僕の皮肉に(改めて言っておくが、嫌なわけではないのだ。ただ、こうも続くと流石に辛いわけで)気付いているのかいないのか、例によってサンダルを突っかけて表に出てくる。

「眠れないのか?」
『う、うん』
「そっか……」

囁くように会話を交わす。うーん。月が綺麗だ。中秋の名月……は少し過ぎてるかな?

さて、この件については、元々最初に砲台山に連れ出したのは僕だし、屋上で「約束」したのも僕だ。
そんな意識も手伝って、僕はこの呼び出しを断らない(断れない)のだ。

通りで長話というのもまずいので、庭の方へ周る。
聞くところによればお母さんの部屋は反対側だそうだから、小声ならば話してても聞こえないだろう。
コンクリの縁側(?)に腰掛ける。

「どうしたもんかねぇ」
『うん。ごめん』
「いや、いいんだけどさ」

最早慣れつつある自分が怖いのだが、秋庭里香、と言えば、みかんを投げつけてきたり病人に買出しに行かせたり医者の頭に味噌汁をこぼしたりと、まあ列挙に暇がないほど「色々」あるのだが、とにかく気が強い。また、「初心者」なら中々歩けないような真夜中の病院の廊下だって堂々と、それこそ恐れを知らないとばかりに歩くような人間だと思っていた。

蛇足だが、僕も入院した当初は、流石にあそこを積極的に出歩こうなどとは思えなかった。
……必要なければ出歩かないのはいつだってそうだったけど。ちなみに、病院の廊下が怖いのは、勿論真っ暗だと言うのもあるのだが、それ以上に、あちこちで不気味に灯る「非常口」のランプがあるからだと言える。
管の接触が悪かったりして、通り過ぎた直後にいきなり明かりが点いたりすると、かなり焦る。
それについては、まあ見回りの看護婦さん(の中でも特に亜希子さん。皆さん当直お疲れ様です)に見つかったかもと勘違いして恐怖するという部分もあるのだが。

話がそれてしまったが、そう。里香の話だ。
こうも……その、言ってしまえば骨抜きになるとは、誰が予想し得ただろうか?

「ほら」
『うん』

僕と里香は以心伝心だ。こんな会話で言わんとしていることが分かってしまう。
……いや、習慣になってるからってだけなんだけどさ。

着ているコートの前を開き、里香をそこへ招き寄せる。
で、ぎゅーっと包んでやる。

あれは多分二回目辺りだったと思うが、寒いと言う里香は部屋に戻れと言うのを聞かず、袖を掴んで離さなかった。
どうしようもないので(あの頃の僕はちょっと浮かれてた、というのもあるが)、このようにしたところ、これがかなり好評を博し、それ以来、習慣になってしまったのだ。

……冷えてるな。布団から出て窓の前で待っていたりしたのだろうか。
体に響くからよせって言ってるのに。

これはもしかして、自分の体なんかより大切ってことなのだろうか。
……だとしたら男冥利に尽きるってものなんだが。少し自意識過剰かな。
そんなこと、以前の里香だったら夢にも思わなかっただろうが、今となっては。

それにしても気持ちよさそうだなぁ。
しばらくして体が暖まれば自然に眠気も出てくるようで、そうなったら僕の本日のお役目も御免というわけだ。
目つきがとろーんとして来たら、頃合。

30%……くらいかな。今は。

「ほーら。よしよし。いい子だいい子だ」
『……ん』

半ば自棄になって思いっきり子ども扱いしてみるのだが、それでこの反応だ。
髪を撫でる僕の手もくすぐったそうに受け入れ、微かに頷いて胸に顔を埋める。
……ここは本来、「子ども扱いしないで!」とか「はあ?あんた何やってるの?」という反応をする所である(又は完全に無視するか)。

リーン。リーン。

風に乗って微かに聞こえてくる虫の声。
大合唱されるより好きだな。こっちの方が。BGMには持って来いだ。
ん?何だ?里香もこっちの方が好きだって?おお。気が合うなあ。

「……」
『裕一』
「な、なに?」
『……何でもない』

「何ニヤニヤしてるの気色悪い!」という反応は望めないようである。
ジキル氏も真っ青だ。
――それとも……?


そしてたっぷり30分後。
その時の里香の表情と言えば、暗くて余りよくは見えないのだが、とろーんとした目つきに、緩みまくって少し紅潮した頬という、……。
これだけでぜーんぶ許す気になっちゃうんだよな。どーでもいいや、みたいな。

「そんじゃ、おやすみ」
『うん。ありがと。……おやすみ』
「早く寝ろよ?」
『うん。裕一もね』
「ああ。……それじゃ」

月はもう、かなり西に傾いていた。
ねむ。

§3


我が高校にも、一応体育祭と名のつくものは存在する。
しかしこれがかなり適当で、これが文化祭だったらみんなそれぞれの部活の誇りを背負ってるから、僕みたいな帰宅部の連中を除けばかなり気合が入るのだが、体育祭となるとそうはいかない。
みんな「運動会」のノリで適当に流している。競技も殆どお遊びに近いようなものばかりだったりするし。

さて、他の学校の例に漏れず、うちにも特に運動部には「対抗関係」みたいなものがあって、顧問の体育教師の中にはここぞとばかりに「決着」をつけようと燃えている者も多い。サッカー部と野球部が特に仲が悪い、ってのもありがちだよな。

先ほど「殆ど」と言ったが、競技の中にはかなり真剣なものも存在していて、それらは主に運動部方面からの要望を受けて過去に設立されたと聞いている。
そこで当然のように起こってくるのが「真剣な」競技の拡大運動だが、生徒の中にも体育会系と文化系がいて、体育会系が文化祭を適当に流すように、文化系は体育祭については冷ややかである。これは教師の世界にもそのまま当てはまるようで、体育科の力だけではどうにも難しいようだ。

そんなわけで、

〔署名お願いしまーす〕
〔お願いしまーす〕

……この時期になると、競技内容の変更のための署名運動が始まる。各運動部とも、部員の中でも特に可愛い女子を起用してこの運動に励んでいる。

司とこの話をした際、司の兄貴こと鉄さんから聞いた話ということで、過去に数度、彼らの要求が認められたことがあった、という話を聞いた。
だからこそ、彼らも飽きずに毎年やっているのだが、実はそれにはもう一つ、別の理由があるらしい。
それは、競技変更が認められた翌年には必ず真逆の運動(即ち、元に戻せ、というもの)が、「何故か」起こって、生徒と、何よりも教師の圧倒的多数によって可決されるという因縁めいたものがあるから、なんだそうだ。

もし今年競技変更の運動が実を結んだなら、来年起こる反対運動には必ず署名する積りだ。運動部同士の抗争とか、本当、どうでもいいし。

〔署名お願いしまーす。あ、ねえねえ。そこの君。いい話があるんだけどな〜〕
[え?ちょ、ちょっと。]

(おいこら!そりゃ反則だろうが!!)

§4


温度差というものは、その存在を意識すればするほど、余計に物事を冷ましてしまうらしく、体育祭まであと二日となった現在に至っても、ここ二年の教室にはいつもと変わらない景色が宿っている。
一年は何も知らないのだから似たようなもんだろう。三年は受験間近でそれどころじゃないはずだし。勉強で肩肘張ってる時に、運動して軽く息抜きしてやるって人もいるかもしれないけど。

(ふわぁああぁ〜〜〜……)

それにしても眠い。
いっそのこと寝ちゃえばいいんだけど、実はそうも言ってられない。というのも、「どうせ僕は高二の授業は二回目だから」なんてたかをくくっていたら、あれよあれよという間にこんな時期になってしまったからだ。去年の今頃は既に入院していたから、授業はそろそろ受けていない段階に入ってきている。
一応レポートは全科目仕上げたので概観という程度ならなんとなくわかるのだが、それだけでは期末はきついだろう。

里香に教えてもらえばいいじゃないか。
……という声も聞こえそうだが、さしもの里香とは言え、習っていない範囲まで完璧に出来るわけではないのだ。
実際、これは先週のことだが……なんだっけこの記号。いんてぐらる?だっけ。について教えを乞うた所、『知らないわよ!』と一蹴された。
里香には里香自身の勉強もあるのだから、あんまり頼るのも悪いしな。

(あーーーー、わがんね)

などと叫んでいる間にも、黒板の数式群はその理解不能さ度合いを更に加速させている
文句を垂れつつも、ひとまずそいつらをノートに書き写す。

ちなみに、僕は一年のときの数学のノートは持っていない。
捨てたのではなく、最初からないのだ。
そう思うと、いかに今の僕が「真面目」かがよく分かろうというものだ。自分で言うのもなんだが。
……里香のお陰、なのかな。やっぱり。

§5


キーンコーンカーン……。

そんな取り留めのない思考、それにしぐまやらこさいんやらが頭を幾度か駆け巡った後、待ちに待ったチャイムが鳴り響く。
次は体育。その次は昼飯。腹を空かせたところにかき込む昼飯は、さぞかし美味いことだろう。

早速着替えることとするか。外に出れば頭も冷えて目も覚めるに違いない。

…………。

(……?)

〔ざわ、ざわ……〕

(??)

意気揚々と着替えを始めた僕にクラス中の視線が集中する。
ってか女子は更衣室別だろ?何で誰も移動しないんだ?

〔ざわ、くす。ざわ……〕

……。
今、笑い声が聞こえたよな。

上半身を脱いだまま硬直する。いくら暖房がついているとは言え、寒い。
さっさと着替えてしまおうと上着に手を伸ばしたその時、

〔あ、あの、戎崎さん?〕

こいつは……、なんつったっけ。そうか、斉藤だ。

「ん、どうした、斉藤」
〔えっと、次の時間の体育は、〕
「うむ」
〔なんでも、体育祭の役員決めがあるそうで〕
「…………」
〔着替えなくていいらしいですよ〕

成程。そういうトリックだったのか。

「…………ご指摘、感謝する。ちなみに、」
〔はい?〕
「いつ知らされた?」
〔今朝担任が言ってましたけど〕
「あー、わかった。……わざわざどうも」
〔いえこちらこそどうも〕

何故かお互いに畏まってしまった。
斉藤君。そんなではあの大宇宙のようなビッグな男にはなれないぞ。
……今朝は、諸般の事情により、ちょっとばかし「時間をずらして」登校したのだ。

と、一旦は脱いだ制服をもう一度着用し、席に座りなおす。
そんなに面白いネタでもないので、視線は自然と遠ざかっていく。

役員決めってことはホームルームみたいなものか。……寝てても大丈夫だよな?
寝ている間に変な役職につけられるっていうのは、この手のシチュ(?)じゃありがちな流れだが、まさか一つ年上である所の僕をはめるような真似をする奴は……いないことを祈っているが。
後輩になめられることほど情けないことはないぞ。


四時間目は念のために目を覚ましていたが、特に指名されるようなこともなく、クラスの人数よりも定員の少ない役員決めは、無事に終了した。

§6


人間は一生のうち約三分の一ほどを寝ているといわれる。
元々僕は夜更かしには余り強くはない。その上、(無駄に)長引いた入院生活で、(当然のことながら)「健康的な」タイム・スケジュールを強制されたお陰で、余計に弱くなってしまった。
好きなときに好きなだけ寝られるというのは、今にして思えばかなりうらやましい身分だった。何しろ、病人というのは病気を治すのを生業としているのだ。

入院していて夜更かしが出来なくなったというのは里香も同じらしい。
元々同年代の友人との付き合いが薄かったせいで余り夜更かしをする経験がなかったのだが、さて、何故こんな話になったのかというと、……。

§7


「里香」
『なに』
「……跡、ついてるぞ」
『え?』
「いや、左のほっぺに」
『うそ?』

と、右の頬に手を当てる。

「いや、逆ね。そう、そっち」
『あ』

たまたま通りかかった橋の欄干(鏡面加工仕上げ)を覗き込む。と、頬に刻まれた一筋の「跡」を発見したようだ。
畳で寝た経験のある人なら分かると思うが、枕を使わないと畳に接していた部分に模様の跡がついてしまう。
……そういえば、最後に畳で寝たのって何年前だろう。
里香の頬についていた「跡」は、ありゃ多分教科書のものだと思うが、きっと突っ伏して寝ていたに違いない。

『……』
「お前、」
『なによ』
「授業寝てただろ、って。いってーな!何するんだよ!」
『裕一、デリカシーなさすぎ!!』
「なっ、教えてやったんじゃねーか!」
『バカッ!!』

……納得できない。が、もしかしたら女ってのはみんなこんなもんなのかもしれない。……かもしれないけど、やっぱり理不尽だ。
だが、まあ、こんな風にちょっとばかし抜けている所が……その、可愛くもあるんだけど。

『……病院で』
「ん?」
『病院だと、ほら。いくらでも寝られるでしょう?だから、今でもたくさん寝ないとだめなの』

照れて……るのかな?

「あ、ああ。そうだな。俺も退院してからあんまり夜更かしできなくなった気がする」
『裕一の場合、一緒に夜遅くまでバカやってるバカがいなくなったからじゃないの?』

……中々鋭い。それにしても手厳しいな。山西が聞いたらもしかしたら卒倒するかもしれない。

「まあ、それ‘も’あるかな」

「も」の部分をさりげなく強調して言ってみる。

『「も」って?』
「そりゃなぁ、お前、」
『なによ』

気付いているのか、いないのか。
何で僕が連日の電話に、深夜にも拘らず殆ど一コール以内で出られるのか。
ただ、僕は別に里香に恩を売るようなことをしたかったわけじゃないし、まあ、その、僕自身も「色々と」いい思いをさせてもらってるからな。とりあえず黙っておこう。

「いや、それよりさ」

いきなり話題を変えてみる。

『ん?』
「明日は午前中だけだよな。久しぶりにどっか行ってみるか?……その、二人で」
『ん?んーー??裕一、それはもしかして私をデートに誘っているのかな?』
「ま、まあ、そうなるか、な?」

意地悪な表情をして僕の顔を覗き込んでくるので、つい反らしてしまう。

『そうかそうか。裕一は私とデートしたいのかぁ』

少々補足させていただきますと、似たようなことは殆ど毎晩致しております。

「ほ、ほら。秋だから……って言ってももうすぐ冬だけど、春に見に行ったところとか、また行ってみようぜ」
『う〜ん』
「ダメか?」
『午前中だけなのって、体育祭の役員を何もしてない人だけだよね』
「ん?もしかして里香、何か引き受けちゃったのか?」
『うん。ほら、私は競技には出られないから、その分役員になっておこうと思って』
「役員か……。よくもそんな面倒くs」

ギロ。

……睨まれた。そういえば、文化祭でもそんな感じだったよな。

「あ、ああ。そ、それで。何の役員になったんだ?」
『保健部。救護のテントの下にずっといていいらしいし』
「そういえばそうだな」

昨年の体育祭の風景を思い出す。そうだ、役員になれば、ずっとテントの下にいられるんだよな。
……ほこりっぽいけど。ただ吹きっさらしの下にいるよりはましかもしれない。最近めっきり寒くなってきたし。

「そっか。じゃあ明後日はずっと仕事なわけだ」
『うん。ごめんね』
「いや、いいよ。んっと、なんていうか、その、……がんばれよ」
『うん』
「あーーでもあんまり無理しすぎるなよ?保健委員が倒れるなんて聞いたことないぞ?」
『わかってるよ』

分かってなさそうだなぁ。
いつの間にか張り切っちゃってるような気がする。心臓に響かなければいいんだけど。
でも、本人が満足するようにやるのが一番なのかもしれないな。

「何か手伝えることはあるか?」
『うーん。特にはないかな。ごめんね。折角誘ってくれたのに』
「いやいや、いいって」
『でも裕一、残念そうな顔してる』
「そ、そうか?」
『うん。あ、そうだ』
「?」
『前に食べに行った、えーっと「三越ぱんじゅう」だっけ?食べに行こうよ』
「『七越』な。そうだな。たまには寄り道するか」
『うん』

そうと決まれば、行き先は商店街だ。

§8


校門を出てから家に着くまでの道程といえば、その大半は住宅地だ。
伊勢の町には、町おこしなんかの関係もあって、現代風の住宅にまぎれて木造の家屋が散在していたりする。そういうのを見ると伊勢というのは中々すごい所なんじゃないかと思う。

さて、僕たちにとっては「ぱんじゅう」と言えば「七越ぱんじゅう」なのだが、実は本家本元の「七越」は数年前に既に廃業してしまっている。
なのに今も「ぱんじゅう」が食べられるのは、地元の人には馴染み深いこの味を、何とか残そうとがんばった人がいるからなのだそうだ。
友人の「通」に言わせれば、味は七越の物とは少し違うという。僕はこの味もまた好きだし、それに何とか残してくれた人たちには何よりも感謝すべきだろう。

そういった嬉しい話題はあるものの、やっぱり人は着実に減っていて、例えば「シャッター銀座」なんかはその象徴みたいなものだ。
神様だってあんまりうるさい所よりは静かな方が落ち着くだろうから、それもそんなに悪い面ばかりじゃないとも思えるのだが、それでもやっぱり少し寂しい。

とは言え、日本という国が滅びでもしない限り神宮は存続するだろうし、その為に(式年遷宮のときなんかは特に)必要な人たちもいるだろうから、街が消えてなくなってしまうということはないだろう。
大丈夫。形が少し変わっていくだけだ。

僕は、この「シャッター銀座」を見る度にそんな思考を繰り返す。

と、僕がこの薄汚れたアーケードに思いを馳せている間に、いつの間にかぱんじゅう屋についてしまった。
丁度出来上がったところらしく、注文した後殆ど待たないで受け取ることが出来た。

二人してほかほかのぱんじゅうを頬張る。
かじった所からあんこが覗くと、もわもわと湯気が漂う。

これは最近知った事実なのだが、里香は猫舌らしい。
自販機で買ったホットコーヒーだってすぐには飲めないし、この通り、
――横目で、ちらっと里香の姿を盗み見る。あちちと、ぱんじゅうの入った紙袋を両手に頻繁に持ち替えている。
ぱんじゅうだって、出来立てをすぐには食べられないのだ。
冷めれば大丈夫だけど、まあ、ぱんじゅうは冷めても尚美味しいのでよしとするか。

最初はちびちびとついばむようにかじっていた里香も、温度が落ち着いてくるにつれて段々とペースを上げる。

『やっぱりおいしいね』
「だろ?」

地元の名物を褒められるのは悪い気がしない。
最後の一口を頬張り、じっくりと咀嚼して飲み込む。

食道から、胃から、ほんのりと温まってくる。冷たい風の輪郭がシャープに感じられる。
寒いときに暖かいものを食べるのは人類の叡智だな。

『ごちそーさま』
「ごちそうさまです」
〔毎度〜〕

食べ終わった袋を店の人に渡す。
そして、二人そろって家路に就く。

商店街を離れ、また住宅地に差し掛かった辺りで、あ、っと里香が思い出したように口を開く。

『ねぇ』
「ん?」
『あっちにさ、宮川って川があるでしょ?』
「おお」
『なんでも、昔は橋がかかってなかったらしいんだけど、何で?』
「ああ、それはな……、」

これは地元の人間なら、小学校のときに誰でも習う有名な話だ。
神社、その中でもこの伊勢神宮や、神宮が位置する伊勢という街は神聖な場所だ。
日本史で習った覚えがある人もいるかもしれないが、そういう場所には「穢」を持ち込んではいけないのだそうだ。だから、この街に入ったり神宮にお参りする前には体を清めておく必要がある。
ほら、神社に行くとひしゃくで水を汲む場所があるだろう?あれはこの親戚みたいなもんだ。

「そんで、昔はみんなこの宮川で体を清めていたと」
『へぇ〜』
「そそ。清めていない人間が街に入って穢を持ち込んでしまわないように、わざと橋を架けないことで、川に入らないでは渡れないようにしたんだとさ」
『なるほど』
「川ってのは水が流れているだろ?川に入れば穢も流してくれるってことなのかもな」
『そっか。なんか、すごいね』
「まあ歴史だけはどこにも負けないからな」
『だね。私が前にいたところには、そんなのなかったよ』
「京都とか奈良なんかに行くと、もっとすごいんだろうけどな」

神宮の建物を思い浮かべる。
京都なんかにはあんなのがごろごろしているんだろうか。

里香は、そんな雑学的知識にしばし感心していた様子だったが、ふと、その表情が引き締まり、思い出したように裕一、と僕の名前を呼ぶ。

「ん?」
『そういうのってさ、窮屈じゃない?』

伝統、ということだろうか。僕はそんなに意識したことはないので実感が湧かない話題ではあったのだが、しかしよく考えれば、伊勢に限らず歴史のある土地には、他よりもそういう場合が多いというのは自然なことだ。

「……どうだろ。うちの場合は、やれ『第何代なんたら家』みたいな家じゃないから、そうでもないかな」
『裕一ってそんな柄じゃないしね』

余り同意されて嬉しい話題でもないのだが、確かに戎崎家は貴族なんて柄ではないだろう。

「……まあ、そういう家の場合はまた違うんだろうけどな」
『かもね』

歴史の授業に出てきたような人たちの子孫は、今でもやっぱり日本のどこかで生きているんだろうか。
藤原さんとか、徳川さんとか。
北條さんなんてどこにでもいそうだけど、平さんがいたら間違いなくそれだよな。
……あれ、でも平さんは源さんに滅ぼされちゃったんだっけ。

祇園精舎の鐘の声が聞こえそうになった辺りで、里香があ、と声を上げる。

『でもさでもさ』

と続ける。

『今ってさ、ほら「少子化」じゃない?そういう家に赤ちゃんが産まれなかったらどうするんだろ?』

確かにそれは大問題だよな。
子供が生まれなければ、そこでその家は終わってしまうわけなんだから。

「昔の、例えば天皇さんには正室と側室って言って、たくさんの人と結婚していたらしいけど」
『あ、それ知ってる。裕一、結構物知りだね?』
「っていうかそのネタでレポート書いたからな……」
『読んだよ。あれ』
「ええ?」

あれって、確か提出した後……ん?帰ってきてたっけ?

『もうちょっと沢山書いたほうがよかったんじゃないかな』
「ああ。それはそうなんだけど、日本史だけじゃなかったからな……」
『教科書、たっくさん積んであったもんね。……結局留年しちゃったけど』
「いやほら、あれは事故だったんだって」

事故事故、と強調する。
そんな僕の様子を見て、里香はあはは、と笑う。

『でもさ、そのお陰で一年多く一緒にいられるようになったんだし。元気出しなよ』
「ま、それはそうだな」

ぽんぽんと背中を叩いてくる。
こんな風に、ちょっと励ましてくれるだけでその気になったりしちゃうんだから、つくづく僕ってのは単純な生き物だなと思ったり。

『あ、それでさ』
「ん?」
『さっきの話だけど、天皇さんには沢山お嫁さんがいたってことだよね?きちんとみんな愛してくれたのかな?』
「ん、うーん……難しいな」
『構ってくれなかったりしたら可哀想だよね』
「そうだなぁ。平等に、ってのは中々難しいかもな」
『本当は寂しかったりしないのかな……。裕一はどう思う?』
「意外と何とかなってたりしてな」
『裕一、適当すぎ。じゃあさ、もし裕一に沢山お嫁さんがいたら、どうする?』
「ええ?それは……あ、いや、そうだな。想像も出来ん。うむ」

何せ一人でさえ持て余しているんだから。
ちらりと里香を見遣る。あ、やべ。目が合っちまった。

『……何よ。あ、もしかして裕一、今変な想像してたんじゃないでしょうね?』
「そ、そんなことは、ないぞ?」
『どうだか……。裕一っていやらしいし』

じとーっとした目つきで睨んでくる。
……少々雲行きが怪しくなってきた。適当にごまかすか。

「ああー、それより昨日のt」
『あ。話逸らそうとしてる』
「いや、別にそんなことは」
『あるでしょ?やっぱり裕一、そーゆーコト考えてたんだ』

見透かしているようで実際は微妙に違っていたりするんだけど、このままにすると後で何か言われそうだし、ここは正直に本当のところを言っておくかな。

「いやほら、俺には里香しかいないから、」

正面切って言うのも恥ずかしいので顔を背けながら告げるのだが、言い終わるが早いか、周り込んで覗き込んでくる。

『本当?』
「あ、ああ。マジ、マジ」

……そんなに見つめないでくれ。

『裕一』
「な、なんだ?」

返答にも思わずびくびくしてしまう。

『もしかして、私のことくどいてる?』
「いや、別にそんな積りは、」

ギロ。

「……そうそう。うん。……多分」

そこまで言うと、今度はにんまりと微笑む。
遊んでるよな、これは。絶対。
それでまた機嫌も一息に直ってしまうのだから、本当に女の子ってよく分からない。

そんなことを話している間に、いつの間にか里香の家の前についてしまった。

『あ』
「着いたな」

実は内心ほっとしている。内緒だけど。
自転車のかごに入れていたかばんを手渡す。

「そんじゃ、またな」
『あ。うん。また明日ね』
「おう」

今まで、里香の歩く早さに合わせてゆっくり引いていた自転車にまたがり、ペダルに力を込める。
ぐん、と景色が流れ出す。

最初の角を曲がる。少し大きめのライン取りをして秋庭家の方を眺めてみると、左手にかばんを提げた里香が、通りに出て胸の前で小さく右手を振っていた。
僕もそれに応え、軽く左手を掲げた。

§9


翌々日。体育祭当日。
その日、僕はある「異変」を、クラスの、主に男連中の様子から感じ取っていた。

(おかしい)

妙にそわそわしている。
本来、体育祭なんてのはだるいだけで、まあ張り切ってる奴もいるにはいるのだが、皆がこれほどまでに浮かれるなんてことは有り得ない。
昨日の四限に見た限りではそんな様子はなかったので、その後に何かあったというところまでは想像がつくのだが、流石にその内容が何なのかまでは分かりかねた。

キッ!!
(な、なんだよ)

着替えを済ませて教室を出て行こうとする僕を、皆が挑戦的(?)な目つきで睨んでくる。
何かしたっけ……僕。

首を傾げながらグランドに降りる。
全校集会の隊形に並ぼうとする途中、同じようにグランドに出てきたみゆきに遭遇した。

「よ、久しぶり」
『……ん』

声をかけると、僕の方に一瞥をくれる。

「だるいよな」
『裕ちゃんはそうでしょうけど……そうね。私もあんまり』
「だよなあ。……勉強の方はどうだ?」
『まあまあ、かな』
「そか。なんつうか、その、がんばれよな」
『うん。ありがと』

やけにしんみりしてしまった。

将来、か。
それは、考えれば考えるほど、見えなくなるものなのかもしれない。
今まではぼんやりと信じていられた「道」も、一度立ち止まってしまえば、あっけなく雲散霧消してしまう。
将来に渡る「レール」が敷かれているなんて比喩をよく聞くけど、もしその「レール」が、ある時ふと消えてしまったなら、その人は一体どうなってしまうんだろうか。

妙に落ち着かない。
一度ならず二度三度と決意したはずの「将来」も、それ自体を考えるとまた見えなくなってしまう。
そうして深みにはまり込む。

[早く整列しろー。]

生徒が中々並ばないのに業を煮やした教師が、メガホンで叫んでいる。
その声に気付いて向こうへ目を遣ると、列も大分出来かかっていた。

〔裕一〜〕

そろそろ行くかと歩き出そうとした瞬間、校舎の方から僕を呼ぶ聞き慣れた声がした。
振り向くと、周囲の奴より明らかに一回り大きいその体躯が駆けてきた。
司には遠近法というものが通用しないらしい。

「おう、司」
〔体育祭だねぇ〕

何だか少し嬉しそうだ。趣味はお菓子作りとは言え、体を動かすのは嫌いではないらしい。
ふと思い立って、今朝の疑問をぶつけてみる。

「あ、なあ」
〔ん?〕
「何だかさ、クラスの男どもがやけに浮かれてたんだが、司は何か思い当たるところはないか?」
〔うーん。うちのクラスはそんなことはなかったなぁ。ちょっと分からないや〕
「そっか。なあ、みゆきは分かるか?」
『……えっ?な、何の話だっけ?』

みゆきの奴、司が来ると思えば、向こうを向いて俯いてしまっていた。

〔え、水谷さん?〕
『あ、えと』

と、顔を上げて振り向く。
で、司と目が合った瞬間また俯いてしまったりなんかして……。
何だこいつら。あれからずっとこんな調子なのか?

〔……〕
『………』

お互い黙り込んじゃってるし。
もう完全に二人の世界って感じだな。

邪魔するのも悪いし、僕は立ち去ることにしよう。

「じゃあ、俺は行くぞ?お前らも早く並ばないとどやされるぞ?」

[『あ、あのっ!』]

……同時に話し出したりなんかして。
この調子なら大丈夫だよな。向こうへ行ってもちゃんとやっていける。
まだそうと決まったわけじゃないけどさ。でも、みゆきと司なら、どんなに苦労したってやり遂げる。

そう確信すると安心する。僕自身のことにしても、少し楽観できるような。
そして、二人とは体操着の色の違う集団へ紛れていった。

§10


朝には曇っていた空も昼前には青空を覗かせ、競技も実にスムーズに進んでいった。
結局今朝の疑問は解消しないままだったが、競技の進行、及び勝敗の決定と共に各組に加算されていく得点を見ていると、当初は面倒くさいなんて言っていてもそれなりに白熱してくるもので、いつの間にか忘れてしまっていた。

午前の競技も三分の二ほどが消化され、僕の出る種目は午後の一つを残すのみとなった。
ハードル二位というのは、まずまずの成績だろう。
体がいい感じに温まってきて、寒さもそれほど感じなくなった頃、ふとのどの渇きを覚え、購買へジュースを買いに行くことにした。

他の男どもと言えば、競技が終わるや否や、みんなしてダッシュでどこかへ行ってしまっていた。
のどが渇いたのならまず購買へ行くはずだ。混んで汗臭い中に突っ込んでいく趣味はないので、適当に時間をずらして買いに行く。
案の定、殆ど並ばずに買うことが出来た。

――そういえば、里香はどうしただろう。
確か保健部の仕事をしていたはずだ。ちょっといってみようか。

忙しいところを手ぶらで訪問するなどという無礼を里香が許すはずはないので、激励の意味も込めてもう一本ジュースを買うことにした。

冷えたジュースを二本提げ、保健部のあるテントへ向かう。
……と、その前には恐るべき光景が展開されていた。

「な、なんだ?こりゃ」

テントの前に長蛇の列が出来ている。
見れば殆どが男子生徒で、みんな妙に浮かれている。お前ら本当に具合悪いのか?

「ん?……もしや」

その光景から、僕の思考はある一つの可能性に行き着く。
――里香は保健部で仕事をしている。
この場合仕事というのは、軽い傷の手当などだ。

「……なるほど。そういうことだったのか」

転んだとか何とかで適当に口実をつけ、里香に手当てをしてもらおうと。

「なめんなよ……?」

保健部ってのはそもそも、怪我をしたり具合の悪くなった人間が来る場所であって、決して里香に会いに来る場所なんかじゃない。ましてや、手当してもらうなんて。

そりゃ、怪我をしたとか本気で具合が悪いならしょうがないが、こいつらはそういう「患者」には微塵も見えない。
お前らがいると本当に具合の悪い奴が後回しになっちまうだろ?
……などと、尤もな理由を浮かべてその男子生徒の列に割り込む。

「おい!こら!お前ら散れ!散れ!!」

手当てをしてもしても減らないことをおかしいと感じ始めたのか、他の保健部員も外に出てきていた。
その異様な光景に、ただおろおろしているだけだった彼女に目配せをする。
……よし、頷いたな。
許可を得たとばかりに、いよいよその列を散らしにかかる。

[なんだお前!]
〔邪魔する気か!!〕
「お前らこそ大したことないのに来てんじゃねえよ!!」
〔あ、こいつ、戎崎です!〕
[そうか……。お前があの戎崎か。里香さんを独り占めにしようったってそうはいかねえんだぞ!!]
「アホかっ!!」

行く手に立ちふさがった二人組のみぞおちに、華麗にエルボーをかます。

[ウッ!]
〔ぐぁっ!!〕
「いいからどけって!」

そんな僕の気迫に圧倒されたのか、他の奴らも道を譲り始める。
更に十数人をかきわけると、ようやくテントに到着した。

「里香っ!」

暖簾のようになった部分を押しのけてテントの中に入ると、ぷうんと消毒液の匂いが漂ってきた。
ふと病院の風景が脳裏をよぎる。

(じろ)

テントに入った瞬間、中にいる全ての人間――保健部員、養護教師、怪我をして来た生徒たち――の視線が集中する。
全ての会話がなくなり、静まり返る。
里香は……あ、いたいた。
なんかしきりに目配せしている。表情が見る見る歪む。……出て行ったほうがよさそうだな。

「あー、その。し、失礼しました〜〜」

大急ぎでその場を退出する。
中の様子を覗いていた野次馬どもを睨みつける。

[……振られた?]
「うっせぇ!!」

ドガッ!

[う、くはっ!]

その場に崩れ落ちる彼を放置し、グランドの方へと帰還する。
あー、ジュース温くなっちまった。

§11


昼頃になると気温は結構上がってきて、暑いように感じられた。
普通は競技が終わってしばらくすれば火照りも収まってくるのだが、気温が上がってきたせいなのか、中々汗も引かなかった。

昼飯時、再び保健部のテントを訪れた僕を待っていたのは、保健部員一同の生ぬるい視線と、養護教師のお説教。それに里香の「バカ!」という台詞だった。
ちょっと参っていた僕にその台詞はかなりこたえたが、何とかなだめて連れ出し、学食で一緒に飯を食った。

『ほんっとにもう〜〜。すっごく恥ずかしかったんだからね!?』
「……悪かった。謝る。この通りだ」
『まさか怒鳴り込んでくるなんて思わなかったし』
「いやほら、あれはその、お前を見ようとして外に群がってた連中がいたから……」
『それでもやりようってものがあるんじゃない?』

それでまた、じとーっとした目つきで睨まれるわけだ。
ちょーっと失敗だったかな。あれは。

「悪かったって。な?この通り。だから許してくれよ」
『ふーんだ』

どうしても許してくれないらしい。
困ったものだ。

キーンコーン……。

〔1時20分から午後の競技が始まります。役員の人はそれぞれの指示に従って……〕

『あ、そろそろ行かなきゃ』
「えーっと、その。午後も仕事、がんばれよな」
『分かってるわよ』

§12


高二の午後の競技は綱引きだ。
しかし、あなどるなかれ。綱引きといっても中々奥が深く、どうすればより効率的に力を綱に伝えられるかとか、どういう姿勢が一番耐えやすいのかなど、色々とテクニックが存在する。
……らしい。ちなみに、これも司から聞いた話だ。

以前はこういったテクニックも踏まえて競技に臨んでいたこともあったそうだが、選手一人ひとりがいくらテクニックを知っていようとも、実際のメンバーで練習しないことには全く意味を成さない。
体育祭の練習らしい練習といえば、せいぜい開会式、閉会式の予行だけで、競技のものは殆どない。
だから、張り切っていた誰かが仕入れてきたらしいそのテクニックも、いつの間にか廃れてしまったのだそうだ。

綱引きは男子、女子それぞれ四チームずつに別れ、トーナメント形式で行われる。
僕はCチームなので、入場した後は最初のAとBの試合を観戦することになるのだが、その時点で既に自分の体の異状に気付き始めていた。
さっきは暑かったくらいなのだが、今度は段々寒くなってきた。
気温が下がった……なんてことじゃないな。これは。ほぼ間違いなく風邪だ。

しかし、ここで抜けるわけには行かない。
Cは、この綱引きで少なくとも一回戦を突破できれば、Dを抜かして総合二位になれる。この期に及んで欠員補充などはあるはずがない。後には退けないのだ。

パァン、パァン!!

試合終了を告げる二発のピストルが鳴り響く。
奥にいるチームがはしゃいでおり、手前は沈んでいる。
ということはBが勝ったのかな。
「やる気ねぇ」なんて言いつつ、いざ勝負を目の前にするとみんな張り切るものなのだ。直前は緊張するし、勝ったら嬉しい。

〔C、D、起立!場所を交代せよ!〕

さて、いよいよだ。
勝負は二つに一つ。勝つか、負けるかだ。

「はぁっ!……くっ!」
〔え、戎崎さん?大丈夫っすか?〕
「あ、ああ。大丈夫。問題ない」

隣の奴も僕の異状に気付いたようだ。だが、心配には及ばないさ。
……正直、かなりヤバい。これ終わったら保健室に寝に行こう。
里香にはどやされるかもしれないけど、……まあ、寝ている人間を叩き起こすようなことはしないはずだ。
突入した次の瞬間にはベッドに潜り込む。寝るが勝ちってことさ。

お〜〜、視界まで霞んできやがった。
だが、綱引きの制限時間は五分。それだけ、それだけ耐えればいいんだ。

〔位置について!〕

合図と共に、一同準備の姿勢に入り、敵チームを睨む。

〔よーい……、〕

パァン!

ワアァアアァア……!!

審判のピストルがなると同時に、一斉に足元の綱をつかみ、脇に抱える。

「うぉっ!」

開始早々、綱が相手方に手繰り寄せられる。Cはいきなり劣勢だった。

〔ふぬっ!〕
[くそっ!]

周りの奴らの表所も厳しい。だが、ここで負けるわけにはいかない!
そこへふと、里香の姿が浮かんだ。これを見て、里香ならきっとこう言うだろう。『負けたら絶交だからね?』
うわー、それは何としても避けなきゃな。

ああ!くそ!!
里香が、里香が見ているんだ!(想像)
ますます負けるわけにはいかねえ!!

「うぉぉぉぉおおっっ!!」

火事場の馬鹿力というやつだろうか。その瞬間、全身に力がみなぎり、筋肉が振るえ、握力が増し、手のひらからは鋭い綱の感触が伝わり、視界が急激にクリアになる。

「うりゃああぁああああ!!」

……その時、奇跡が起こった。
僕の気迫が周りの奴らにも伝わったのか、今まで相手のペースに飲まれかけていた試合が一転。じりじりとこちら側に動き始める。
一旦動き始めれば後はこっちのもんだ。一歩、二歩と進むにつれ、徐々にその速度が上がっていく。
相手は最早総崩れだ。見えた!勝利が見えたぞ!!

そして、

パァン!パァン!

試合終了。やった……。
見事な逆転劇に、ギャラリーからも大歓声が上がる。
敵は放心状態。味方は、ああ、あそこでも、ここでもハイタッチしたりなんかして。

[やりましたね!戎崎さん!]

先ほど声をかけてくれた同級生が、興奮した面持ちで近づいてくる。

〔戎崎さんの気合がみんなに伝わったんですよ!〕
[さすが。先輩は違うなぁ。]
「あ、おお。そうか。勝ったんだな……俺たち」
〔この調子で次はBの奴らを……って、あれ?どうしました?〕
「ウッ!……いや、そろそろ流石にヤバいみたいだ。保健室行ってくる」
[だ、大丈夫ですか?]
「ああ。こんなの少し寝れば治るさ」

背中に未だ興奮冷めやらぬ同級生の歓声を聞きながら、歪む視界の中を保健室へ目指す。
競技途中にグランドを横切る姿は観客の視線をそれなりに集めているようだったが、今は人の目なんて気にしている状況ではない。

足がふらつく。ここまで無理をしたのは久しぶりだ。
耳がぐわんぐわん鳴り始めた辺りで向こうを見ると、赤い十字のマークがついたテントが目に入る。
あれは保健のテントの印だ。
薬品などを取りに行く都合からか、テントは保健室に併設されている。扉があり、外から直接入れるようになっている。
その暖簾をくぐる。

「ち、ちわー」

テントの中に入ると、競技の最中ということもあってそこには里香一人しかいなかった。

『また来たの?裕一。もう、仕事の邪魔しないでよね……って、ちょっと!どうしたの!?』

顔を見た瞬間、邪険に扱われるが、やっぱりこの距離でもヤバいってのは分かるのかなぁ。

「い、いや、あの。風邪?」
『風邪って……あつ!す、すごい熱だよ?ねえ!裕一!?』

額に触れる手のひらが気持ちいい。
あー、意識が朦朧としてきた……。

「ああ。でさ、ちょっと寝かせてくれよ」
『え?えっと、ベッドは……』

ベッドの状況を確認しに奥の扉へ入っていく。

直後、視界が暗転する。世界がひっくり返る。

ベッドの方を見に行った里香が戻ってくる。
里香ったら、何言ってるんだろ。聞こえねえや……。

§13


カァ……カァ……。

「……」
『……』

それから、どれほどの時間が過ぎたのか。
恐る恐る開いた目を、西日が射る。

「……うっ!」

思わずまた閉じてしまう。

『ゆ、裕一?』

聞き覚えのある声。不安げな波長が混じっている。

「んんっ!り、里香っ……あつっ!」

頭を起こそうとした瞬間、前頭部に鈍い痛みが走る。

『裕一!?』
「あ、あつつ……」
『大丈夫?』
「あ、ああ。えーっと、」

目線だけを動かして辺りを見回す。
窓の外には真っ赤な夕陽。
白いシーツや目隠しの白いカーテンは、その光線に照らされて輝いている。
いつもとは違う感触のベッド。そうか、ここは保健室だっけ。
天井の方を見遣ると、小さな穴の開いた模様が目に入る。

そして、こちらに身を乗り出している里香。
その全身もまた真っ赤で……そう。里香は白衣を着ていた。
だぼだぼの袖は右側だけまくってあって、そこから橙の肌が覗いている。
隣には洗面器。

看病してくれてたのかな。額には体温で温くなった濡れタオルが載っていた。

心臓が脈打つ度、耳に血流の音が響く。どこからか、加湿器のものと思われるごぉーっという音が微かに聞こえてくる。
窓の外、橙の光の海からは、たまにカラスの鳴き声が遠く響いている。

『はぁ〜〜。よかった……』
「ああ、……いつっ!」
『頭、痛いの?』
「う、うん」
『待って。今タオル代えるから』

生ぬるくなっていたタオルを洗面器の水に浸し、水を絞る。

『はい』
「あ、ど、ども」

額に濡らしたばかりのタオルを載せてくれる。
冷たくていい気持ちだ。

…………。

本当。静かなもんだ。
さっきまで辺りに満ちていた歓声も、今は耳の奥で……あ。

「あ、そ、そういえば体育祭は?」
『もう終わっちゃったよ』
「そ、そうか」
『うん。今年はAが優勝だったのかな』
「まじか……」

あそこからよくも追い上げたもんだ。
我がC組はどうだったのだろう。

『ねえ、裕一』

まるで重大な事実を切り出すように僕の目を真っ直ぐに見据え、引き締まった声で呼びかける。

「ん?」
『どうして、こんなになるまで無理しちゃったの?』

不安そうな声が空気を震わせる。
辺りの布に吸収されるて全く反射しないので、舌の動きが分かるほど鮮明に聞こえてきた。

「……大丈夫だと思ったんだけどなぁ」

途中までは確かにそうだったんだけど。

『裕一、バカだよ。具合悪いの分かってたんでしょ?』
「ま、まあな。でもほら、あそこで勝ってれば……」
『バカ!』

大声に言い訳も打ち消される。
僕にはその声は怒っているようには聞こえず、むしろ、何かにすがるような、悲痛な色が混ざっていた。

『本当にバカだよ。裕一はいっつもそう。屋上からベランダに飛び移ったり。……自分のこと、見えなくなっちゃうんだよね』
「……心配してる?」
『バカッ!当たり前じゃない!!』
「ご、ごめん……」
『でも、でも私の方がもっとバカだ。裕一がこういう性格だって知ってたのに。もっと早く休んでいれば、こんなことにはならなかったのに……っ!』
「ごめん。無理しすぎた」
『昼間に会ってたのに。すぐにこんなに悪くなるわけないもん。ご飯食べた時から調子悪かったんでしょ?』
「午前中くらいからかな」
『そうだよね。よく考えたら、お昼ご飯残してたもん』
「ああ、ちょっと食欲がな……」

僕を真っ直ぐに見据える瞳が潤む。
涙は、まるで砂浜に波が打ち寄せるようにじわっと広がり、見る見る内に大粒の雫となって頬を伝い落ちる。

『ごめ、ごめんね。私ったらいっつも自分のことばっかりでっ!裕一のこと気付いてあげられなかった』
「い、いや、それは、」

「違う」と続けようとした瞬間、頭に鈍い痛みが走る。

「くっ!」
『ゆ、裕一!?大丈夫だよね?ねえ?』
「あ、ああ。こんなのただの風邪だから」

頭のぐわんぐわんという痛みに耐えながら、上半身を起こす。
ぱさっ。タオルが脇へ落ちる。

『風邪って……。そんな、風邪だって油断してると重症になっちゃうんだよ?』
「あ、ああ」
『それで、それでもし裕一が……っ!』

ぶわぁっと涙が噴き出し、溢れ、頬を伝う。

「そ、それは……。でもほら、今回のことは俺が悪いんだから。里香には責任はないよ」
『あるよぉ。こんなになっちゃったのだって、元はと言えば私が毎晩呼び出したりするから……』
「そ、それは関係、」
『でも裕一、最近ちょっと眠そうだったよね?』
「ま、まあな……」
『寝不足で、それで体育祭なんて無理したから……』

ごめん。ごめんね。
何度も何度も繰り返しながら、さめざめとと嗚咽をこぼす。
元々ちっちゃい里香が、更に小さく見えた。

「いや、俺がバカだったのが悪いんだから、」

ううん。と首を振る。それで、またごめん、ごめんと繰り返す。

「里香のせいじゃないよ。里香のせいじゃないって」

小さい体が震えている。ほっそりとした肩が震えている。
ひっく、ひっくとしゃくりあげる。その肩に手を伸ばす。

『ぐす、ひっく。ごめん。ごめんね』
「違うよ。里香は悪くない。悪くないよ」
『違うよぉ……。それに、こんな、私、裕一に、なぐさめてもらえる資格なんてっ……!』
「そんなことない。そんなことないって」
『ねえ?何でそんなに優しいの?裕一は、私のこと酷い奴だとか思わないの?』
「酷いだなんて、そんなことないよ。な?」

ううん。と僕の言葉を否定する。

『私、初めて逢ったときから裕一に色々命令したり、怒鳴ったり、頭叩いたり、他にも、他にも色々、沢山嫌なことしてるのに。……それなのに何でいっつも裕一は、っく、裕一はぁ!』
「ま、まあ。部屋に入った瞬間にみかん投げつけられたり……」
『ほらね?……もう、私って何でこんなにわがままなんだろう』

それは、と言いかけた口をつぐむ。

しょうがなかったんだと思う。
甘えたい盛りの年頃に父親をなくし、心臓のせいでずっと病院に入院してて。
学校にも行けず、世界は病室と、それに廊下、屋上。たった、それだけ。
他のみんなが当たり前にしていること、出来ていること。ずっと横目で見ていたんだ。

きっとものすごく悔しかったんだろう。自分の体を、心臓を、神様を何度呪ったことだろう。
心が乾いて、ささくれて。
だから周りに、看護婦さんに、先生に八つ当たりして。
僕はなんてのはその延長線上に過ぎなかったのかもしれない。手頃な使いっ走り。

自分の病気のことを知れば、周りの人間は同情さえしてくれただろう。
けれど、同情なんてものは結局、その人が自分に言い聞かせる免罪符に過ぎないんだ。
同情する。可哀想だと思う。そんな感情で自分を正当化する。
そんなもの、同情される側にとっては迷惑なだけだ。……だけど、だからと言って彼らには何も出来なかった。
同情することしか出来ない。同情さえ出来ないような冷たい人間であるはずがない。
周りの大人は、そんな気持ちで里香を見つめていた。

きっと里香は、そんなことも全部分かっていたんだ。
彼らを理解することは何とか出来た。だけどどうしても納得することは出来ない。
そもそも心臓の病気だって誰かのせいってわけじゃない。

だからこそ尚更悔しくて、もどかしくて、苦しくて、押しつぶされそうで。
『覚悟』――「生」を捨てる覚悟は、そのまま「世界」を捨てる覚悟でもあった。

だけど今は――。

「……あのさ」
『……すん。ぐす……。な、何?』

僕を見つめる瞳が不安げに揺れる。
これから何を宣告されるのか。もう自分など捨てられてしまうのではないか。
じぃっと見ていると吸い込まれそうになるような瞳の奥では、そんな不安が渦巻いていた。

「俺はさ、その」
『うん……』
「確かに、確かに里香は、その、少しわがままだと思う。……だけど、それはずっと、何年も入院してたせいなんだよ。……きっと。だから里香は悪くないよ。俺だって、あんな場所にずっといたら、そうなっちゃうかもって思うし」
『裕一……』
「だから里香は悪くないよ。それに、出会った頃に比べれば、今は大分変わってきた。その、段々丸くなったというか……」
『そ、そう、なの?』
「う、うん。だから、そんな自分を責めないでくれよ。心配しなくても、俺は里香を捨てたりしないから。だから――」
『うん』
「その、さ。好きなんだよ。里香のこと。そうだな。笑っているのが一番好きだぞ?……だから、笑っててくれよな?里香が悲しんでいるのを見るのは、俺の方も辛いんだよ」
『うん……。ごめんね。ごめん。……』
「ああ。大丈夫、大丈夫だぞ?……だからそろそろ、涙を拭こう。な?」

こくりと頷く。
ポッケからハンカチを取り出し、頬の洪水を拭っていく。

夕陽は、あれからまた更に傾いていた。

§14


里香の涙がようやく乾いたのは、もう日も暮れて、夜の帳が降り始めた頃だった。
僕はそれまで、すっかり気落ちしてしまった里香の肩を支えたり、背中をさすったりしてなぐさめていた。

里香は泣き止んでさえいたが、自分のせいで僕が寝不足になったんだと考えると、甘えることも憚られるようで、見上げた瞳はやはりどこか不安げだった。

『ありがとね。裕一。……私ったら、泣いてばっかり。……ほんと。弱くて、だめだよね』

どこか諦めの混じった微笑を浮かべる。

人間、常にだれかに支えてもらえるわけではない。支えてもらえても、迷惑をかけてしまう。
だから「強く」ならなくてはいけない。

――だけど、「強い」って一体どういうことなんだろう。
虚勢を張ること?――違う気がする。中身がない泡のような心は、針で突かれたらいとも簡単に破裂してしまう。
どんなことにも耐られること?――これも違う。硬くなった心に水が染み込めば、どんどん脆くなってひび割れてしまう。
知らんぷりをすること?――そんな卑怯な強さなんていらない。

全て受け入れていたら、一人では無理だ。押しつぶされてしまう。
正直な人ほど、みんな破滅に飲み込まれてしまう。「強く」ないから?それでは哀しすぎるじゃないか。

だったら、支え合ってもいいじゃないか。
抱えきれない苦しみも、背負いきれない悲しさも、零れ落ちそうな幸せも、全部分け合えばいい。

里香はもう十分に闘ってきた。
もうそろそろ、何も考えずにいられる時間があってもいいんじゃないか。

だから、

「……俺だってさ、強くなんかないよ。里香がいなくなったら、折れてしまうかもしれない」
『……うん』
「だけど、今は。今は確かに二人とも生きてる。……いつかは消えてしまうものかもしれないけど、それなら、せめて今だけは……」
『……』
「……こんな話、知ってるか?『人』っていう字はな」
『二人の人が支えあってる……』
「ああ。だけど話はそこで終わりじゃない。どうして、『人』が歪んだ形をしているか分かるか?」
『……どうしてだろ』
「そんなに張り詰めていられるほど強くなんてないから、なんだってさ。……俺たちも、そうなのかもな」
『かも、ね』
「……里香」
『ん?』
「……二人でさ、その、『人』になろうぜ?」
『裕一……』
「あ、あはは。ちょっと臭かったか?」
『ううん。そんなことないよ。……嬉しい』
「そ、そうか。あはは……」
『ふふ。あは。あはは……』
「あはははは……」

そうして二人、顔を突き合わせて笑いあう。
その旅路がどんなに険しく、辛く、寂しいものであったとしても、またここに帰ってくれば、かさかさになった心も癒えていく。
いや、違うな。その路を、二人で歩いていくんだ。

〔おーいどうしたー〕
「っ!!」

保健室の扉がガラっと開いて、養護教師が入ってくる。

〔随分とお楽しみのようだなぁ戎崎。どうだ?具合は〕
「あ、ええ。うーん。ちょっと頭が痛いくらいですかね」
〔熱はどうだ?〕
「んー。どうでしょう。少しあるような」
〔ふむ。まあ、げらげら笑えるようなら大丈夫だな。明日は代休で休みだから、家でゆっくり休め〕
「はい」
〔もうこんな無茶はするなよ?……ここはもう閉めるから。さっさと帰る支度してくれよ〕
「分かりました」
『裕一、これ』
「お?」

と、ベッドの脇から僕のかばんを差し出す。
準備いいなあ。

「おお、さんきゅ」
〔戎崎ぃ。秋庭に感謝しろよ?お前が倒れてからずぅーーっと看病してくれたんだぞ?〕
「あ、ああ。ありがとな」
『どーいたしまして』
〔よしよし。秋庭、白衣は洗って返却な〕
『あ、はい』
〔おし。そんじゃ、もう暗いから気をつけて帰れよ〕
「はい。どうもありがとうございました」
『無理言っちゃってすみませんでした。先生』
〔ああ。そんじゃ、お大事に〕

ガラガラガラ……。
保健室の戸を閉める。

「……なあ」
『ん?』
「本当にその、ずっと看病してくれてたのか?」
『そ、そうだよ?』
「これも?」

と、自分の今着ている‘制服’を指差す。
倒れたときは当然体操服だったはずなので……。

『あ、そ、それは……』
「……」

見る見る顔を赤らめる里香。
そうか……。

『えっと、その、汗もすごかったし……っ!』
「あ、ああ。うん」
『だ、だから……』
「うん。色々すまんな」
『ど、どういたしまして』

校門をくぐる。
西の空こそまだ赤みがかっていたものの、東の空はもう真っ暗だった。
世界は、夕焼け色から濃紺への移り変わりの、目が覚めるようなグラデーションを描いていて、東には気の早い星たちが瞬き始めていた。

通りに点々と配置されている街灯が、僕らの進む道を照らす。
これから姿を見せる半分の月を、夜空は優しく抱いてくれるのだろうか。